藤原氏:
・中臣鎌足が死の床で38天智天皇から「藤原」の姓を賜る
→子の不比等にだけ藤原姓を継承させる(42文武天皇)
・祭祀をつかさどる中臣氏から決別し、太政官政治を主導する
・氏社:春日大社
・氏寺:興福寺

中臣(なかとみ)氏:
・祖神は天児屋命(アメノコヤネノミコト)
天の岩戸の前で、八咫鏡を差し出した神。
天孫降臨の際ニニギノミコトに付き添う。
・本来は"卜部"と称した(鎌足の曾祖父の頃に改姓)
・ヤマト朝廷で代々祭祀をつかさどってきた氏族(神と人の"中"をとりもつ)

中臣鎌足(614-669)
父:中臣御食子(みけこ)
子:不比等(次男)
子:氷上娘(ひかみのいらつめ) :40天武天皇夫人
子:五百重娘(いおえのいらつめ) :40天武天皇夫人
・死の床で38天智天皇から「藤原」の姓を賜る

不比等(659-720):
父:鎌足
妻:娼子
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子:[南家]武智麻呂(むちまろ,680-737)
子:[北家]房前(ふささき,681-737) :長屋王との協調路線
子:[式家]宇合(うまかい,式家,694-737) :藤原氏の主導路線
子:[京家]麻呂(695-737)
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子:宮子 :42文武妃、聖武天皇の母
子:光明子 :45聖武妃
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・藤原4兄弟は藤原氏3代目
・宇合らが長屋王の変(729)で、長屋王(反藤原勢力)を自殺に追い込む
※房前は長屋王との協調路線であった
・藤原氏の外戚による地位獲得の萌芽
・天皇と藤原氏の間に生まれた皇子が皇位を継承するという基本形の始まり
・後継者は武智麻呂(南家)

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★南家:武智麻呂の子孫
・公卿の数では北家についで2番手
・平安中期以降は文章道(もんじょうどう)に活路を見出す

仲麻呂(706-764):
=藤原恵美朝臣押勝(えみのあそんおしかつ)
父:武智麻呂
・光明皇后(光明子)の甥
・47淳仁天皇(大炊王)を擁立
◎764押勝の乱(藤原仲麻呂の乱)
[46孝謙上皇・道鏡・坂上田村麻呂]vs[47淳仁天皇・藤原仲麻呂]
→押勝(仲麻呂)は斬首
→南家の凋落
→47淳仁天皇は淡路島に幽閉される
→46孝謙上皇が48称徳天皇として重祚(ちょうそ)
→48称徳(=46孝謙)は百万塔をつくらせる

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★式家:宇合(うまかい,694-737)の子孫
広嗣(ひろつぐ)
父:宇合
・藤原広嗣の乱(740)
玄昉,吉備真備の排斥を求める上表を提出し、九州で挙兵
→鎮圧
百川(ももかわ)
父:宇合
子:緒嗣(おつぐ)
子:旅子
・策士
・50桓武天皇の立太子に貢献
→50桓武天皇は子の緒嗣(おつぐ)を参議に
「緒嗣(おつぐ)の父(百川)がいなかったら、私は帝位につけなかった」

旅子(759-788)
父:百川
夫:50桓武天皇
子:53淳和天皇の母

種継(たねつぐ,737-785)
祖父:宇合
父:浄成
子:薬子
・785暗殺される(長岡京づくりの責任者)
→◎早良(さわら)親王(同母弟)を共犯者として配流(船中で絶食死)
→怨霊となり数々の災厄をもたらす (怨霊思想の始まり)

薬子
父:種継(たねつぐ)
・51平城天皇が3年余りで弟の52嵯峨に譲位
→平城は上皇となって平城旧京へ隠棲
→52嵯峨天皇方と51平城上皇方で対立(二所朝廷)
→◎薬子の変(810):
[52嵯峨・坂上田村麻呂] vs [51平城・薬子・仲成(なかなり)]
※同母兄弟の争い
→51平城太上天皇が平城京に都を移すことを宣言(810)
→薬子は自害、51平城上皇は平城旧宮へ
→高丘親王は廃太子 →出家(東大寺) →入唐
→式家は勢力を失う
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★北家:房前(ふささき)の子孫
冬嗣(ふゆつぐ,775-826):房前の曾孫
長良(ながら,802-856):基経の父
良房(804-872) →下記参照
基経(836-891) →下記参照
時平(871-909)
穏子(やすこ,885-954):60醍醐天皇の女御
忠平(880-949)→★摂関家
師輔(もろすけ,908-960)
伊尹(これまさ,これただ,924-972)
兼通(925-9775)
兼家(929-990) →下記参照
道隆(953-995)
伊周(これちか,974-1010)
隆家(979-1044)
子:道兼(961-995)
子:道長(966-1028) →下記参照
子:彰子(しょうし)(988-1074) 
子:頼通(よりみち)(992-1074)
子:教通(のりみち)(996-1075)
子:超子(?-982)
子:詮子(962-1002)


◎良房(804-872)
父:冬嗣(ふゆつぐ) :房前の曾孫
妻:潔姫(きよひめ) :嵯峨皇女 (嵯峨源氏)
姉:順子
子(養子):基経
娘:明子(あきらけいこ)
・男子にめぐまれず、長良(兄)の子である基経を養子にとる
◎承和の変(842) (54仁明期)
※自分の甥を皇太子にするための良房の陰謀か
52嵯峨上皇崩御
→謀叛を企てた罪で、恒貞親王(先帝53淳和の皇子)は廃太子
→出家して東大寺へ
→甥の道康(55文徳)が立太子 (姉・順子の子)
→53淳和派の貴族が失脚
→52嵯峨系の父子直系王統(54仁明-55文徳)
→良房(北家)が力を伸ばす
・857太政大臣(55文徳期)
・孫の56清和(せいわ)天皇が9歳で即位(★最初の幼帝)
→良房(外祖父の太政大臣)が実権を握る
◎866応天門炎上事件(56清和期の放火事件)
→源信(みなもとのまこと)に嫌疑
→伴善男(とものよしお)が真犯人か →流刑
→真相ははっきりせず(藤原氏の策略か)
→藤原良相(よしみ)失脚
→★良房は初の人臣摂政に
→★北家は「摂関家」の家格を確立
→北家による千年にわたる摂関独占のはじまり
・56清和(せいわ)天皇の摂政(人臣初)
・良房没(872)
→後継者は養子の基経

◎基経(836-891,養子)
実父:長良
子:時平
子:忠平
・良房の養子に入る(良房は男子にめぐまれず)
★57陽成の摂政
→57陽成天皇が宮中で馬を飼育するなど粗暴な行動
→摂政を辞職
・58光孝天皇の従兄弟(母同士が姉妹)
・「年中行事御障子文(ねんじゅうぎょうじごしょうじもん)」(年中行事が記されたついたて)を58光孝に献上
◎阿衡(あこう)の紛議(887): 
59宇多天皇が基経を関白に任命する詔勅中の「阿衡の任」という文言に、基経が難癖をつける
→基経が政治の実権を握る
→娘の温子(あつこ)を59宇多天皇の妻に(基経は外戚に)
・59宇多天皇の関白(★関白の始まり)
・基経没(891)→時平(長男)が後継者
・「をぐら山峰のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ」百26
・宇多天皇が大井川へ紅葉狩りに出かけた際にお供をした忠平が読んだ歌
「をぐら山峰のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ」百26
※60醍醐天皇(宇多上皇の息子)にも見せたいともらした上皇の気持ちを読んだ→翌日実現

時平(871-909)
父:基経
弟:忠平(三男)
・基経の長男
・道真が姿を変えた雷神が清涼殿に落ちようとした際、刀を抜いて相対し「生存中のそちは予の次の位にいた。いま雷神となってもこの世では予に遠慮すべきだ」と言って雷神をにらみつける(大鏡,北野天神縁起絵巻)
・道真の死の6年後に39歳で没

◎忠平(880-949)
父:基経
兄:時平(長兄)
長男:実頼(さねより)900-970
次男:師輔(もろすけ)908-960 「一くるしき二」
三男:師尹(もろただ)920-969
・基経の三男
・時平(長兄)没後、60醍醐親政を補佐
・「をぐら山峰のもみぢ葉こころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ」(百26)
59宇多上皇が大井川に紅葉狩りに出かけたさい、お供をした忠平が読んだ歌
60醍醐天皇(宇多上皇の息子)にも見せたいともらした上皇の気持ちを読んだもの→翌日行幸
・61朱雀天皇の摂政・関白となる
★以降、元服を境とする摂政と関白の使い分けが慣習となる
・62村上天皇の代も引き続き関白となる

実頼(さねより)900-970
父:忠平
・63冷泉天皇の関白
◎安和の変(969)
左大臣源高明(みなもとのたかあきら)が謀叛の罪で太宰府に左遷(藤原氏北家の陰謀か)
→藤原氏による他氏排斥の最後の事件
→以降は同族間での争いへ
→安和の変より摂政・関白が常置され、北家内でその地位が争われる
→◎摂関政治(950-1050)
・安和の変の頃、実頼はすでに70歳と老齢
→まもなく没
→甥の伊尹が摂政に
師輔(もろすけ)
父:忠平
子:伊尹(これまさ,これただ,924-972)
子:兼通(925-977)
子:兼家(929-990) 

伊尹(これまさ,これただ,924-972)
父:師輔
弟:兼通(925-977)
弟:兼家(929-990) →下記参照
・師輔の長男
・970実頼(おじ)が没し、摂政に就任
→2年後に没(49歳)
→兼通が関白の座に
・弟たち[兼通vs兼家]のはげしい兄弟争い

◎兼家(929-990)
父:師輔(もろすけ)
兄:伊尹(これまさ,これただ):長兄
兄:兼家(次男)
妻:時姫
子:道隆(953-995) →病死(酒の飲み過ぎ)
子:道兼(961-995) →病死(七日関白)
子:道長(966-1028)
子:超子(?-982)
子:詮子(あきこ,962-1002): 66一条天皇の母
妻:道綱母(みちつなのはは) :◎蜻蛉日記の作者
子:道綱(955-1020)
妻:町小路の女
・師輔の三男
・兼通(兄)との不仲
・道兼(次男)との策略で、傷心の65花山天皇を出家させる
・次の66一条天皇(孫)のもとで摂政となる

道隆(953-995)
父:兼家
子:◎定子(976-1000)が入内(66一条天皇), 清少納言の主人
子:伊周(これちか)
子:隆家
・兼家の長男
・中関白家(なかのかんぱくけ):道隆家
・66一条天皇の摂政の地位を兼家(父)から引き継ぐ
・酒の飲み過ぎで43歳で没
→実弟の道兼が関白に(七日関白)

道兼(961-995)
父:兼家
・兼家の次男
・兼家(父)との策略で、65花山天皇を出家させる
・道隆(兄)の病死を受けて関白になるも11日後に病死(七日関白)

◎道長(966-1028)
父:兼家
妻:倫子(りんし) :年上の妻
子:彰子(しょうし)(988-1074)
→入内(66一条天皇)、◎紫式部の主人
子:◎頼通(よりみち)(992-1074)
子:教通(のりみち)(996-1075)
子:威子(たけこ): 68後一条天皇の中宮
妻:明子(めいし) 
・兼家の三男
・豪胆(65花山天皇の肝試し)
・馬好き
・土御門殿(つちみかどどの):倫子との結婚で得る
彰子は土御門殿で68後一条天皇、69後朱雀天皇を出産
嬉子(きし)は土御門殿で70後冷泉天皇を出産
・兄二人(道隆・道兼)が病没し、詮子(あきこ,実姉,66一条天皇の生母)の後ろ楯で66一条天皇の内覧となる
・伊周,隆家兄弟(甥)を追放
・67三条天皇に譲位を迫る(自分の孫、彰子の子を皇位につけるため)
三条天皇の歌
→心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半(よは)の月かな(百68)
・68後一条天皇(孫)の摂政となる
→1年で頼通(26歳)に摂政の地位を譲る
・三女の威子を68後一条天皇に入内させる(自分の孫と娘)
◎威子(たけこ)立后の夜の宴席で道長が詠んだ歌
→この世をば我が世とぞ思ふ望月(もちづき)の かけたることもなしとおもへば
・摂関政治の絶頂
太皇太后:彰子(長女)
皇太后:妍子(けんし,次女)
中宮:威子(三女)
・御堂関白記(みどうかんぱくき):道長の日記
・腰痛,糖尿病,白内障,胸病,気管支喘息等、持病が多かった
・出家(1019)

藤原彰子
父:道長
子:68後一条天皇、69後朱雀天皇
孫:70後冷泉天皇、71後三条天皇
曾孫:72白河天皇

◎頼通(992-1074)
父:道長
妻:隆姫女王(たかひめじょおう)
→子供できず
子:師実(もろざね)
・68後一条、69後朱雀、70後冷泉と3代にわたり摂関の地位につく(約50年間)
・荘園の整理
・娘にめぐまれず、外孫を皇位につけられず
・平等院鳳凰堂
阿弥陀如来像(定朝作)

★以降、
①院政
②摂関家内部の勢力争い
③武家の登場
により摂関家の勢力は衰退していく


九条家
→一条家(実経)
→二条家:良実より

近衛家(このえけ): 基実より
→鷹司家(たかつかさけ):兼平より