■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●旧石器時代
・旧石器=打製石器  岩宿遺跡(群馬県)
・移動生活
・マンモス
・ナウマンゾウ(約1万6千年前までいた)
・土器はない
・北京原人
火を使っていた(焼けた動物の骨が発見されている)
・港川人: 沖縄県具志頭村(ぐしかみそん)の採石場から全身そろった化石
顔つき
彫りが深い
鼻が高い
上下は短く、幅は広い
体つき
背丈は低い
手足は短い
上半身はやせ気味だが手と前腕は大きい
下半身はしっかりしている
・岩宿遺跡(群馬県、相沢忠洋が発見)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●縄文時代
・新石器=磨製石器
・定住生活を開始
・獲得経済
採集・狩猟・漁撈(豊かな食生活)
初期農耕(湿地を利用した小規模の稲作)
・縄文土器 (深鉢型)

・竪穴住居:冬は暖か、夏は涼しい
→竪穴住居は、地方では奈良時代まで続く
・土偶(女性像)
・弓矢
・丸木舟
・大森貝塚(東京都大田区~品川区) 発見者:モース
・鳥浜貝塚(福井県)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●弥生時代
紀元前3世紀~3世紀 (0年を挟む600年間)
・農耕社会(北海道のぞく)
灌漑(かんがい)を伴った水稲(すいとう)農耕(朝鮮半島より伝来)
灌漑:雨だけに頼らず、田に水路を引くことで水を供給すること
灌漑農業⇔天水農業
・環濠集落:周囲に濠(ほり)を巡らせた集落
・弥生土器(薄い、堅い、明るい色、文様が少ない)
・鉄器、青銅器(銅と錫の合金)
・邪馬台国
・239 "文(フミ)ください卑弥呼より" →魏の国へ使い(三国志の魏・呉・蜀)
・吉野ヶ里遺跡
佐賀県の大環濠集落
縄文人とは異なった身体的特徴(高身長、長い顔)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●古墳時代 
3世紀後半~7世紀後半

ヤマト政権(各地の首長の連合)
:大和(やまと)・河内(かわち)を中心とする各地の豪族の連合体
大和:現・奈良県, 河内:現・大阪府東部
盟主:大王(おおきみ) →後の天皇
・氏姓制度:それぞれの氏(うじ)が、特有の職位をヤマト政権内で持っていた
ヤマト政権が、それぞれの氏に世襲の姓(かばね)を授けた
氏(うじ) :
葛城(かずらき)、平群(へぐり)、巨勢(こせ)、蘇我 :地名による氏の名称
中臣(なかとみ)、忌部(いんべ) :祭祀などの宗教関係の職掌とする氏
大伴(おおとも):軍事関係を職掌とする氏
物部(もののべ):軍事・刑罰関係を職掌とする氏
姓(かばね)
:臣(おみ)・連(むらじ)、君(きみ)、造(やっこ)・首(おびと)・史(ふひと)など
ex蘇我臣(蘇我+臣), 大伴連(大伴+連)
・前方後円墳(全国的な画一性)
・埴輪(はにわ)
・4世紀末、朝鮮半島に軍事的進出 (広開土王碑文)
[倭国・百済・伽耶] vs 高句麗
・538 "ご参拝、仏教伝来百済より" ※紀では552年
欽明(きんめい)天皇のとき仏教公伝 百済の聖明王より 
→蘇我稲目(仏教受容)と物部尾輿(排仏)の対立
・推古天皇(最初の女帝)
-聖徳太子(推古天皇の甥)が摂政(天皇に代わって政務を行なう職)
・600 "群れをなし、ズンズン進む遣隋使" 100年以上ぶりの中国への使者
607 第2次遣隋使(小野妹子ら)→②煬帝("日出づる処の天子…")
・603 "禄をさずける冠位十二階" (氏姓制度→官僚制)
世襲された姓(かばね)とはことなり、冠(かんむり)は一代かぎり
生まれにとらわれず、才能・功績・忠誠に応じて授けられた
昇進も可能
・604 "労惜しむなと十七条" 十七条の憲法
①和を以て貴しとなし… ②篤く三宝(仏・法・僧)を敬へ…
※618 "浪費やまず、遂(隋)に滅亡" 隋の滅亡(589-618の短命王朝)
・645 "虫殺す大化の改新"
大化の改新
[中大兄皇子、中臣鎌足]vs[蘇我蝦夷、入鹿]
中と中で、政権中枢内で実権を握っていた蘇我氏を討つ
→646 改新の詔
①公地公民制(国土も国民も国家のもの)
②地方行政組織の設定
③戸籍・班田収授の法
"班田":口分田をあたえること
→戸籍が形骸化し、班田収受は902年を最後に行われなくなる
④税制の改定
・663 "むろん惨敗白村江の戦い" 
[日本(中大兄皇子=天智天皇)・百済]vs[唐・新羅]
→百済滅亡
→防人の設置(国防の防衛強化)
→百済から多くの貴族が亡命 :木簡による記録技術が伝来
・672 "胸掴み、壬申の乱"
天智天皇(中大兄皇子)の死去後の皇位継承争い(天皇の弟と息子)
大海皇子(叔父) vs 大友皇子(甥)
→大海皇子が天皇に即位(天武天皇) "智"→"武"
→「政の要めは軍(いくさ)の事なり」
・694 藤原京に遷都 (平安京遷都の100年前)
飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや) → 藤原京
:日本で初めての本格的な都城(宮→京)
(現・奈良県内での移動)
・701 "なお言われる大宝律令"
"律":刑罰法  "令":行政法
:国家の統治組織、官人の服務規程、租税、労役などを定めた体系的な法律
太政官(だいじょかん、行政担当)、神祇官(じんぎかん、神祇祭祀担当)
国-群(ぐん,こおり)-里 (県-市-町のようなもの)
国司:中央から国(今でいう県のような区分)に任命される(任期制)
群司,里長:地方豪族が終身任される(世襲制)
国号を"やまと"→"日本"へ(異説あり)
?初めて年号を定める(「大宝」→現在の「平成」まで続く)?異説あり
翌年遣唐使を派遣("日本"という国号を初めて名乗る)

飛鳥文化:
推古天皇・聖徳太子の時代を中心とする奈良・仏教文化
飛鳥:奈良盆地南部の明日香(現・明日香村) 
玉虫厨子(法隆寺) ( 厨子:仏像、舎利、経巻を安置する箱型の仏具)

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●奈良時代
710(平城京遷都)~794(平安遷都) 8世紀
平城京(奈良県北端:現・奈良市)から平安京(京都)までの約80年間(短い!)

★天武系天皇の時代

・710 "なんと見事な平城京"
南都:平城京(奈良), 北都:平安京(京都)
藤原京(奈良盆地南部)→平城京(奈良盆地北部)
元明天皇期
平城京では和同開珎が流通  
・712 "ナイフで切り貼り工事(古事)中" 古事記の完成
・720 "何を書こうか日本書紀"
・723 "なに、3代までも、三世一身法(さんぜいっしんのほう)"
・729 "なにくわぬ顔で長屋を倒す" : 長屋王の変
:藤原4兄弟が長屋王(40天武の孫)を自殺させる
→◎藤原氏の躍進
→光明子(不比等の娘)が妃から后  皇族でない女性が皇后に!!
・743 "なし身は墾田、永年私財" 墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)
・743 同年大仏造立の詔(聖武天皇)
・752 "難工事、奈良の大仏" 東大寺の大仏完成(現存の大仏は大部分が修復されたもの)
・764 "苗むしる押勝"(藤原仲麻呂の乱)
[46孝謙上皇・道鏡・坂上田村麻呂]vs[47淳仁天皇・藤原仲麻呂]
→押勝(仲麻呂)は斬首
→南家の凋落
→47淳仁天皇は淡路島に幽閉される
→46孝謙上皇が48称徳天皇として重祚(ちょうそ)
→48称徳(=46孝謙)は百万塔をつくらせる
天平文化:
奈良時代の真ん中 聖武天皇時代の文化
◎仏教文化 
高度な貴族文化、唐の影響、
東大寺正倉院の宝物(瑠璃坏など)
古事記
日本書紀
万葉集
風土記

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●平安時代 
800-1200:西暦1000年を挟む前後400年
(794-1192)
★天智系天皇の時代

・794 "鳴くよウグイス平安京" これより平安時代
長岡京→平安京(京都)
東寺・西寺以外に大きな寺院なし
桓武天皇が仏教勢力(奈良の寺院)を避けたため大寺院の平安京への移転を認めず
羅生門、朱雀大路
※桓武天皇:桓武平氏の始祖
※藤原京遷都(694)のちょうど100年後
・桓武天皇が、坂上田村麻呂を蝦夷(えみし)討伐に派遣(東北)
※蝦夷(えみし)と、中世の蝦夷(エゾ)=アイヌとは別の民族
・藤原氏の台頭(摂関政治):11世紀前半
・旧仏教に対して密教が広がる
真言宗(空海・金剛峯寺)  ※空海=弘法大師 (三筆の一人)
天台宗(最澄・比叡山延暦寺)
・894 "白紙に戻そう遣唐使" 
菅原道真の建議で遣唐使の廃止→907唐の滅亡
国風文化の発達へ
※民間での交易は継続
・武士の登場(10世紀ごろ)
豪族や農民に武装するものが現れる
また武力によって朝廷、貴族に仕えるものが現れる
・939 "草食って将門の乱"
将門:東国におもむいた皇族の子孫
武士による反乱
下総(千葉県北部)から関東を征服
"新皇"を名乗る(菅原道真の霊より授かる)
同じ頃、純友の乱(藤原純友:藤原氏北家、元々は伊予国の国司)
↑鎮圧
藤原秀郷(ひでさと):奥州藤原氏の祖
平貞盛:平清盛の先祖
源経基:源頼朝の先祖
・969 "クルクル回る、アンナは変" :安和の変
源高明(みなもとのたかあきら)が藤原氏北家の陰謀で太宰府に左遷される
→以降、摂政・関白が常置(藤原氏北家が独占)
→◎摂関政治(950-1050)
・平氏の台頭:
兵隊(侍)として朝廷・貴族に仕える身分だった武士が、政治権力を持つように
→法皇と平氏の対立
・1156 "コロコロホッケー(保元)の乱"
[75崇徳上皇・頼長・源為義・平忠正]vs[77後白河天皇・平清盛・源義朝]
武士が中央政界に進出するきっかけとなる
→以後「武者(むさ)の世」に(愚管抄)
・1180 "いい晴れ舞台、源氏の挙兵"(平氏 vs 後白河法皇・源氏・豪族・寺社など) 
→1185壇の浦(山口県)で平氏滅亡

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
平安時代の政治権力推移

[親政]延喜・天暦の治
醍醐天皇(897-930)・村上天皇(946-967)は摂関をおかず
[摂関政治]950-1050  (平安時代の真ん中の100年間) 
藤原家の力が特に強まり、摂政・関白は常置(安和の変以降)
摂政・関白の地位は藤原忠平の子孫が独占(摂関家)
◎藤原道長(966-1027)・◎頼道(992-1074)で頂点、頼道でほぼ終わり 
[院政] 1100-1200年
自分の系統に皇位を継承させるため、幼年の皇太子に早々と皇位を継承し、上皇が実権を振るう
(白河・鳥羽・後白河)
[平氏政権](武家) (平安末期、保元・平治の乱から)
平氏(桓武天皇の子孫)が院と結んで中央政界へ進出
清盛が武士としてはじめての太政大臣に(1167)
娘(徳子)を中宮に入れて天皇の外戚に(1172)
→一族の多くが朝廷の高位高官に就き実権を握る
「平家にあらずんば人にあらず」
→法皇と対立(→1179 清盛は後白河法皇を幽閉するまでに)
源氏の挙兵(1180)→壇の浦(1185)→鎌倉幕府(1192)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

-------------
★寝殿造(平安時代の貴族の邸宅)
・寝殿を中心にいくつかの建物(対屋、たいのや)配し、それらを渡殿(わたどの=渡り廊下)でつなぐ
・寝殿の前(南側)には池
・建物は檜皮葺(ひわだぶき):
茅葺き(茅で屋根をつくる)、瓦葺きではなく、檜(ヒノキ)の樹皮を剥いだもの(檜皮)で屋根を葺(ふ)く(厳島神社、清水寺、善光寺などに現在でも残る)
・室内は板敷き、置き畳(部屋全体に畳を敷くのではなく、部分的に畳を置く)

★鳥獣戯画図 :栂尾山高山寺(とがのおさんこうさんじ)保有

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●鎌倉時代
1192(いい国つくろう)-1333(さんざんさわいで鎌倉つぶれる)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
平安時代までの政治:
藤原家(摂関家)や平氏が実権を握ることありながらも、天皇を中心とする朝廷が政権を担っていた
鎌倉時代~明治維新の政治:
もともとは朝廷・貴族の兵隊であった武士たちが政治権力を奪った
(「幕府」という名称も戦場で幕を張って軍営を設営したことによる)
実際にはしばらくの間、幕府と朝廷の二元的な支配がつづいた(承久の乱まで)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

・1192 "いい国つくろう鎌倉幕府" 
平氏追討後、頼朝は京都に軍勢を送って後白河法皇を圧迫
1185 守護・地頭の任命権,兵糧米の徴収権,諸国の在庁官人を支配する権利を獲得
1192征夷大将軍に任命される
鎌倉幕府:
9代 約150年(1192-1333) 
1203から執権政治(執権が政治の実権を掌握)
源氏が興した幕府だが、実質的には最後まで北条氏(執権)が実権を握った
源氏3代、藤原将軍(摂家将軍)2代、親王将軍(宮将軍)4代

・1221 "肘つい(1221)て、昇給(承久)たのみ、断(後鳥羽)られる" 承久の乱
★朝廷と幕府の政権争い(朝廷の倒幕計画) 
: 後鳥羽上皇 vs ②北条義時(執権)
→朝廷側の完敗
→★幕府と朝廷の二元的支配の終了
→後鳥羽上皇は隠岐島(島根)に島流し!
→六波羅探題(京都の警備、朝廷の監視!)の設置
※上皇の島流しや、朝廷を監視する機関の設置などから
 朝廷と武家の力関係が逆転したことがはっきりとうかがえる
・1232 "ひと文に記す御成敗式目(貞永式目)"
最初の成文武家法
③北条泰時
武家社会の掟
紛争を裁く基準 (「御成敗」=裁判)
・1274,1281 "意地なし(74)敗(81)退、モンゴル軍"
元寇(文永・弘安の役)
・後醍醐天皇の倒幕計画と足利高氏(源氏)の加担
・1333 "さんざん騒いで鎌倉潰れる" 
[後醍醐天皇・足利高氏]vs[鎌倉幕府(北条氏)]
足利高氏・新田義貞らにより倒幕
→鎌倉幕府の滅亡

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●建武の新政(3年間)
1333-1336
後醍醐天皇の親政
→★建武の新政:朝廷が3年間だけ武家から政治権力を奪還!!
摂政・関白の職務は廃止
→朝廷への様々な不満・反発
→足利尊氏(高氏が改名)が反乱
→京都制圧(1336)
→後醍醐天皇は吉野(奈良)へ脱出(南朝)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●南北朝時代
・1336-92 "いざ去ろう、でも統一国(92)のため"
約60年間
★同年(1336)室町幕府成立(北朝)
北朝:①足利尊氏が京都で擁立した光明天皇 →内部分裂に揺れる
南朝:吉野(奈良)に逃げ込んだ後醍醐天皇   →後醍醐天皇は吉野で死去
→③足利義満の呼びかけで南北朝統一(1392)
※南北朝の動乱は皇室の正統争いであり、政治権力は室町幕府が握っていた
 室町幕府は北朝を支えた
 現在の皇室は北朝の末裔 三種の神器は南朝

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●室町幕府(南北朝時代・室町時代・戦国時代)

・室町幕府
約250年間 (1336-1573) ※南北朝時代も含む
足利将軍15代 (徳川幕府も15代)
①足利尊氏 :源氏の名門出身(鎌倉幕府に続き、再び源氏の幕府)

・1467 "人世むなしい応仁の乱" (★戦国時代の始まり)

★応仁の乱
⑧足利義政の次の家督相続争いに端を発した内乱
11年間に渡って京都の市街地で戦闘
→京都は焦土化
→幕府の権力は失墜

★戦国時代(1467~1590) [応仁の乱 ~ 秀吉の全国統一]
幕府の権力が失墜
→戦国大名の誕生:各地の武士が領国(分国)をつくって独自の支配を行なう地方政権
(室町幕府による中央集権→分国の地方分権)
応仁の乱以降、100年以上つづく、戦国の世
→秀吉の全国統一(1590)

・1543 "以後予算は鉄砲に"
鉄砲伝来
ヨーロッパ人が日本に初めて到来
・1549 "以後よく広まるキリスト教"
キリスト教伝来(ザビエル来日) 仏教伝来に遅れること約千年
・1560 "一路群れなす桶狭間"
桶狭間の戦い [信長 vs 今川義元]
桶狭間:尾張(愛知)
・1573 "一行涙の室町滅亡"
信長が⑮足利義昭(あき)を京都から追放し、室町幕府が滅亡
・1582 "以後ばつ悪い本能寺"
本能寺の変 明智光秀→信長
・1590 "戦国丸く収める全国統一"
秀吉の全国統一
★戦国時代の終わり
→秀吉死去
→関ヶ原の戦い(1600)
→東軍(家康方)の大勝

文化
~~~~~~~~~~~~
"ミッキー・マギー"
足利義(ミ)満 (キ)金閣寺 北山文化
足利義(ミ)正 (ギ)銀閣寺 東山文化
~~~~~~~~~~~~
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●江戸時代
1600(関ヶ原)-1867(大政奉還)

江戸幕府
15代約250年
①徳川家康,③家光("みつ"=3)、⑧吉宗、⑮慶喜

・1612 "異人の宗教禁止する"
禁教令
江戸時代に入ってすぐ!
・1637 "南の島で島原の乱" (天草の乱)
首領:天草四郎
キリシタン信仰を旗印にした百姓一揆
島原(長崎県), 天草(熊本県)で起きた
・1641 "よいのはオラだけ、長崎出島"
平戸(長崎)のオランダ商館 →長崎の出島へ
・1716 "名、広くいきわたる吉宗"
⑧享保の改革
・1825 "都合が悪いと打ち払い"
異国船打払令
清・朝鮮・琉球船は例外
・1837 "一派、みなでテンパ(天保)る平八郎"
大塩の乱
天保の飢饉(1833,1835-36の大凶作)より
・1853 "いやでござんすペリー来航"
浦賀(横須賀市)
翌年日米和親条約→函館,下田(伊豆半島)の開港
・1858 "拒んでもチュウしよう(通商)"
日米通商条約を井伊直弼(大老)が違勅調印 (「違勅」:天皇の命令に反した)
→幕府への非難
→安政の大獄(井伊による弾圧)
→桜田門外の変(井伊を暗殺)
→尊王攘夷の動き、倒幕運動(薩長)
・1867 "やむなく返す大政奉還"  ⑮慶喜が大政奉還の申し出、朝廷も翌日受理
幕府(軍人政権)が天皇(朝廷)に「政治権力(大政)を返し奉る(奉還)」の意
★徳川幕府滅亡
★鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府と続いてきた軍事政権の終焉
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●明治時代
1868-1912 (44年間)
"老婆(68)いつ(12)でも明治のお菓子"

・1867 王政復古の大号令(大政奉還の同年)
(「昔の天皇中心の政治に戻す」という、朝廷による宣言)
★王政が復活 (建武の新政以来)
→徳川氏をのぞく新政府樹立
・1868 "やろうやっぱり戊辰戦争"
新政府に徳川家の役職がなかったことで戦闘開始
[旧幕府軍(⑮慶喜・幕兵・会津・桑名)]vs[新政府軍(薩長)] 

・1869 東京奠都(てんと)

・1875 "いやなゴリ押し江華島"
江華島事件
朝鮮に圧力をかけ日朝修好条規(江華条約)
・1877 "難なく治める西南戦争"
徴兵制度・秩禄処分・廃刀令に対する不満
→士族の反乱(西郷隆盛)
・1889 "約束どおり明治憲法"
明治憲法発布
翌年第一回総選挙(人口の1.1%)
・1900 "丸々出兵義和団事件"
義和団・清軍が列国公使館包囲
→8カ国出兵
・1904 "押し出し日露戦争"
→ポーツマス条約(ローズベルト仲介)
→韓国を日本が植民地化 
・1910 "悔いを残して日韓併合"
・1912 明治天皇崩御

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●大正時代 
1912-26 (14年間)
"大将(大正)のいじ(12)わる任務(26)"

★WW1(1914-1919)
・1914 "石なげて、サラエボ事件" 
セルビア青年が墺(オーストリア)皇太子夫妻を暗殺
→WW1(1914-19)
・1919 "行く行くベルサイユ宮殿"
パリのベルサイユでベルサイユ条約
---
・1923 "国乱れる大震災"
関東大震災
・1926 大正天皇崩御
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
●昭和
1926-1989 (63年間)
"ショウガ(昭和)なら、煮る(26)なり焼く(89)なり"

・1929 "時給下がる世界恐慌"
→英仏ブロック経済
→米ニューディール政策
・1933 "サッサと脱退日と独"
日・独が国連脱退
・1936 "寒さで凍るニ・ニ六"
陸軍青年将校が天皇中心の軍事政権樹立を目指す
・1937 "みんなが注目日中戦争"
蘆溝橋事件

★WW2(1939-1945)
・1939 "いくさ苦しい第二次大戦"
独のポーランド侵攻
・1941 "用意してない真珠湾"
日米海戦
・1945 終戦
---
・1950-53 "号令(50)誤算(53)の朝鮮戦争"
警察予備隊設置
・1951 "好意的 シスコ条約"
サンフランシスコ条約
日本の主権回復
・1951 同年、日米安全保障条約
→米軍の日本駐留を定める
・1973,79 "波(73)なく(79)なるオイルショック"
73年
79年
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
【幕府】:3つの軍事政権
 将軍は軍のトップであり、かつ政治のトップ (つまり文民統制ではない)
 年号、期間はざっくりと覚えることが大切
 
鎌倉幕府 
1200-1350 (1192-1333)
150年間(9代)
源氏→執権(北条氏)による実権支配
鎌倉(関東)

----3年間の建武の新政を挟んで----
室町幕府
1350-1600 (1336-1573)
250年間(15代)
足利家(源氏の名門)
京都(関西)

----関ヶ原の前の250年間は室町幕府、後の250年間は徳川幕府----

徳川幕府
1600-1850 (1600-1868)
250年間(15代)
徳川家
江戸(関東)