※基本的に日本書紀をもとに記述していますが、古事記からの話も入っています。 ミコト・命・尊: ミコト=御言、"命令者"が原義か(津田左右吉、武田佑吉) 命の字を当てるのが一般的であったらしい →岩波文庫「日本書紀」(一) 補注1-8に詳しい 大兄(おほえ): 嫡長子に付けられる例が大部分 多くは勾大兄皇子以降に現れる →岩波文庫「日本書紀」(三) 補注17-4に詳しい 親王(しんのう): 天皇の兄弟および皇子(みこ) 内親王(ないしんのう): 天皇の姉妹、および皇女 皇子(みこ): 天皇の息子 ⇔皇女(ひめみこ) 皇女(ひめみこ): 天皇の娘 ⇔皇子(みこ): 皇太子(ひつぎのみこ,こうたいし): 皇位を次ぐ皇子(次の天皇になる予定の皇子) "ひつぎのみこ"「霊(ひ)を継ぐ者」の意 =東宮 →岩波文庫「日本書紀」(三) 補注巻第16-5(p373)に詳しい 太子(ひつぎのみこ): =皇太子 =東宮 立太子: 皇太子として定める儀式 皇后(きさき、こうごう): 天皇の正妻 妃(きさき): 妻である内親王(皇族である妻) 夫人(おほとじ): 内親王以外の妻(一般人の妻) 皇太后(おほきさき)=大后(おほきさき): 天皇の妻の呼称については岩波文庫「日本書紀(三)」 補注16-4(p372)に詳しい 嬪(みめ): 内親王以外の妻(一般人の妻) 舎人(とねり): 天皇・皇族・貴族の身辺で雑用をつとめる下級役人 嬪(みめ) 称制 諱(いみな):実名 重祚 女御(にょうご):妃の一つ。位は「中宮>女御>更衣」 (古語辞典を参考) 中宮:①[平安初期まで]皇后・皇太后・太皇太后の総称 ②[醍醐天皇以降]皇后 ③[一条天皇以降]皇后に準ずるきさき。女御・更衣の上位。 宿禰(すくね): ①古くは天皇が臣下を親しんで呼ぶ言い方 ②40天武天皇のとき定めた八階の姓(かばね)の第三位 スメラミコト:語源→岩波文庫「日本書紀(三)」補注16-1に詳しい ツ:助詞「~の」 /天つ風(天の風) イラツメ[郎女・郎姫]:女性を親しく呼ぶことば イラツコ? ヒコ:男子の尊称 ホムタ,アサヅマ,ハツセ:地名 アナホ(穴穂):大和の地名 カル(軽):地名 大和高市群 奈良県橿原市大軽町付近 ヤツリ(八釣):地名 イナビ:地名 印南(いなみ) ------------------------------------------------------------------------- ------------------------------------------------------------------------- アマテラスとスサノヲ(?)のウケヒ ↓ アメノオシホミミノミコト(天之忍穂耳命) 妻?:ヨロヅハタトヨアキツシヒメノミコト(万幡豊秋津師比売命) ↓天下りの準備中に生まれる ニニギノミコト 妻:コノハナサクヤビメ(木花佐久夜毘売) ↓コノハナサクヤビメが、ニニギノミコトの疑いを受けて火中の産屋で出生 ホヲリノミコト 妻:トヨタマビメ(ワタツミノ神の娘) →出産の際に大鰐に変身 ↓大鰐にに変身したトヨタマビメが、葺き終わらぬ産屋で出生 ウカヤフキアヘズノミコト 妃(みめ):タマヨリビメノミコト :トヨタマビメの妹(叔母にあたる) 子:1神武(じんむ)天皇 =カムヤマトイワレヒコノミコト(神日本磐余彦尊) ------------------------------------------------------------------------- 1神武天皇 (一)-p198 =カムヤマトイワレヒコノミコト(神日本磐余彦尊) ※イハレ:地名 奈良県磯城群 磐余山(いわれさん)がある。 →岩波文庫「日本書紀」(一) 補注3-1に詳しい 父:ウカヤフキアヘズノミコト(鵜葺草葺不合命) 母:タマヨリビメノミコト(トヨタマビメノ命の妹) (紀)正妃(皇后):ヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛) ※タタラ:立たれの古い名詞形 ※イススキ:ぶるぶるふるえた →紀p106注7 (記)大后(皇后):イスケヨリヒメ ※オホモノヌシノ神(丹塗りの矢に変身)とセヤダタラヒメの娘 ・ハツクニシラススメラミコト(始馭天下之天皇) →岩波文庫「日本書紀」(一) 補注3-20 ・日向(ひむか)から東征 ・熊野村(くまののむら、和歌山)で大熊を見て失神 ・高木神(タカミムスヒノ神)の遣わした八咫烏(やたがらす)の先導 ・宇陀のエウカシ、オトウカシ →エウカシの罠と、オトウカシの協力 ・つちぐも(土雲・土蜘蛛)の討伐 ・橿原宮(かしはらのみや)で即位(現・奈良県橿原市、畝傍(うねび)山の東南) 2~9:缺史八代(けっしはちだい):旧辞に欠き、実在性に疑問 2綏靖(すいぜい)天皇,3安寧(あんねい)天皇,4懿徳(いとく)天皇,5考昭(こうしょう)天皇,6考安(こうあん)天皇,7考霊(こうれい)天皇,8考元(こうげん)天皇,9開化(かいか)天皇 父 ↓ 子 10崇神(すじん)天皇 (一)-p274 =ミマキイリヒコイニヱ(御真木入日子印恵) ※ミマキ、イニヱの語義不詳 =初国知らしし御真木天皇(ミマキノスメラミコト) =御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)(記) 父:10開化(かいか)天皇 皇后:ミマキヒメ(御間城姫) 子:11垂仁天皇 ・ハツクニシラススメラミコト(御肇国天皇皇) →岩波文庫「日本書紀」(一) 補注3-20 ・オホモノヌシノ神が疫病を流行らせる →オホモノヌシノ神による夢のお告げ →オホタタネコ(オホモノヌシ神の子孫)に三輪山でオホミワノ大神を祭らせる ※タタ:語義不詳、地名? ※ネコ(根子):尊称 ・叔父のタケハニヤスノミコの反逆と少女の歌 「御真木入日子はや 御真木入日子はや 己が緒を 盗み殺(し)せむと 後(しり)つ戸よ…」 ↓ 子 11垂仁(すいにん)天皇 (二)-p16 父:10崇神天皇 母:ミマキヒメ(御間城姫) 皇后:サホヒメ(狭穂姫):サホヒコ(狭穂彦)の弟 ※サホ:地名 奈良市佐保町 子:ホムツワケノミコ(誉津別皇子)→成人しても言葉を発せず ※ホ:火 ※ワケ:生まれ 皇后:ヒバスヒメノミコト(日葉酢媛命) 子:12景行天皇 =大足彦尊(おおたらしひこのみこと) 子:◎ヤマトヒメノミコト →伊勢神宮 妻?:オトカリハタトベ (記) 子:フタヂノイリビメノミコト :ヤマトタケルの后(みめ) ・サホヒコ(狭穂彦)の謀叛 「汝(いまし)、兄(いろせ)と夫(をうと)と、孰れか愛(うつく)しき」 →皇后の膝枕にて、皇后の涙で目を覚ます ※"涙を垂らす、垂仁"(ゴロ合わせ) ・サホヒメが稲城(いなき)の中でホムツワケノミコを出産(記) ・ホムツワケノ皇子(誉津別皇子)が30歳になっても泣いてばかりで、言葉を発せず →出雲の大神を参拝して唖が治る(記) ・ヤマトヒメミコトが伊勢にアマテラスオホミカミの祠を建てる(伊勢神宮の起源) →ヤマトタケルに草薙剣(くさなぎのつるぎ)と火打ち石の入った袋を授ける ・マトノヒメノミコトを、その醜さから送り返す →帰路で自殺 (記) 父 ↓ 子 12景行(けいこう)天皇 (二)-p58 大足彦忍代別天皇(オホタラシヒコオシロワケノスメラミコト) 父:11垂仁天皇 母:ヒバスヒメノミコト(日葉酢媛命) 皇后:ハリマノイナビノオホイラツメ(播磨稲日大郎姫)※イナビ:地名 印南(いなみ) 子(双子):大碓皇子(おほうすのみこ) 子(双子):◎小碓皇子(をうすのみこ) =ヤマトタケルノミコト 皇后:八坂入媛命(やさかいりひめのみこと) 子:13成務(せいむ)天皇 =ワカタラシヒコノミコト ・双子の出生で臼に向かって叫び声を上げる("臼を携行、景行天皇"ゴロ) ・ヤマトタケルの活躍 ・息子13ワカタラシヒコノミコトが宴に出席せず、武内宿禰とともに見張り →12景行天皇の目に留まり皇太子に ★日本武尊(ヤマトタケルノミコト) =ヤマトヲグナノミコ ※ヲグナ:語義不詳 諱:小碓皇子(をうすのみこ) 父:12景行天皇 母:播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおほいらつめ) 弟:13成務天皇(ワカタラシヒコノスメラミコト) 妻:ミヤズヒメ(美夜受比売):尾張 后(みめ):フタヂノイリヒメ(両道入姫) ※14仲哀即位前紀では皇后 :14仲哀記では11垂仁天皇の娘、11垂仁記に記述なし 子:14仲哀天皇 =タラシナカツヒコノミコト(足仲天皇) ・双子の兄殺し 大碓尊(おほうすのみこと)をバラバラにし、薦(こも)に包んで捨てる →12景行天皇によって熊襲討伐に派遣される ・熊襲討伐 →女装して祝宴に侵入 →熊曾建(くまそたける)兄弟を討つ →クマソタケルから名をもらう ・出雲建(いづもたける)と友になり、偽の刀を交換して討つ 「やつめさす 出雲建(いづもたける)が 佩(は)ける刀(たち) 黒葛(つづら)さは巻き さ身無しにあはれ」 ※さは:多く ・12景行天皇より東国平定の命を受ける →伊勢神宮で、ヤマトヒメノミコト(オバ、11垂仁の娘)に愚痴をこぼす →草薙剣(くさなぎのつるぎ)と火打ち石の入った袋を授かる ・尾張国でミヤズヒメと結婚の約束 ・焼津(静岡)で野火攻めにあう →火打ち石で迎え火、草薙剣 ・東征の際、走水海(はしりみずのうみ、浦賀水道)で立ち往生 →后、オトタチバナヒメノミコト(弟橘比売命)の入水(じゅすい) ・足柄峠(神奈川と静岡の境)の神が、白い鹿に姿を変えて現れる →食べ残しの蒜(ひる)を投げつけて殺す ※蒜:ユリ科の多年草 →峠の上で弟橘比売を思い出し「あづまはや」と言う (吾妻=わが妻) →「東(あずま)の国」(足柄山から東)の由来 ・ミヤズヒメの月経の歌 ・山の神が姿を変えた白猪と雹(ひょう) ・「倭(やまと)は国のまほろば たたなづく青垣(あをかき) 山隠(こも)れる倭しうるはし」(記) ※国思歌(くにしのひうた) ・道中、30歳で病没 ・白鳥になって飛んでいった(棺には衣だけが残っていた) 父 ↓ 子 13成務(せいむ)天皇 (二)-p114 =ワカタラシヒコノスメラミコト 父:12景行天皇 母:ヤサカイリヒメノミコト(八坂入媛命) 兄:ヤマトタケルノミコト 大臣:武内宿禰(たけのうちのすくね) 皇太子:14仲哀天皇(甥) =タラシナカツヒコノミコト(足仲彦尊) :ヤマトタケル(兄)の子 ・13ワカタラシヒコノミコトが宴に出席せず、武内宿禰とともに見張り →父(12景行天皇)の目に留まり皇太子に ・男児がいなかったため、甥のタラシナカツヒコノミコト(14仲哀天皇)を皇太子に ・"政務にかまけて男児ができず"(ゴロ合わせ) ↓ 甥 ----------------------------- 14仲哀(ちゅうあい)天皇 (二)-p120 父:ヤマトタケルノミコト(日本武尊) 第二子 母:フタヂノイリヒメ(両道入姫) :11垂仁天皇の娘 叔父:13成務(せいむ)天皇 皇后:神功(じんぐう)皇后 子:15応神天皇 =ホムタワケノミコ(誉田別皇子) ・叔父にあたる13成務天皇が男児に恵まれず立太子 ★神宮(じんぐう)皇后 (二)-p136 =オキナガタラシヒメノミコト(気長足姫尊) ※気長(おきなが):近江の地名(息長) 夫:14仲哀(ちゅうあい)天皇 ・新羅征討→新羅から帰還し、筑紫で15応神天皇を出産 父 ↓ 子 15応神(おうじん)天皇 (二)-p190 諱:ホムタワケノミコト(誉田別尊) =胎中天皇(神功皇后の新羅征討の際、身ごもっていた) 父:14仲哀(ちゅうあい)天皇 母:神功(じんぐう)皇后 皇后:仲姫(なかつひめ) 子:16仁徳天皇 =オホサザキノミコト(大鷦鷯尊) 妃:タカキノイリヒメ(高城入姫):皇后の姉 子:オホヤマモリノミコ(大山守皇子) →16仁徳天皇に反乱 妃:ミヤヌシヤカヒメ(宮主宅媛) 子:ウジノワキイラツコノミコ(菟道稚郎子皇子) →皇位を譲るために自殺 ※ウヂ(菟道):地名 京都府宇治市 子:ヤダノヒメミコ(矢田皇女) →16仁徳天皇の皇后 妃: ヲナベヒメ(小甂媛):宅姫の妹 子:ウヂノワキイラツメノヒメミコ(菟道稚郎姫皇女) 皇太子:ウジノワキイラツコノミコ(菟道稚郎子皇子) →皇位を譲るために自殺 ※応神天皇の皇女一覧→岩波文庫「日本書紀」補注10-2 ・鞆(とも,ほむた,弓矢に使う武具)の形をした肉が、生まれつき腕についていた ・敦賀の気比大神(けひのおおかみ)と名前を交換 ・「汝等(いましたち)は、 兄(え)の子と弟(おと)の子と孰(いづ)れか愛(は)しき」記 →16オホオサザキノミコトが太子の補佐となる(後に皇位を継承) ・武内宿禰(たけのうちのすくね)の弟の讒言と、探湯(くがたち) ・没後、オホヤマモリノミコの陰謀 「我、太子(ひつぎのみこ)を殺して、遂に帝位(あまつひつぎ)登(し)らむ」 紀(二)p228 →河に落とされて溺死 ・没後、息子二人による皇位の譲り合い ウジノワキイラツコノミコ(太子)とオホサザキノミコト(16仁徳天皇) →3年間の空位,鮮魚の譲り合い →太子は自殺して兄(16仁徳天皇)に譲る →3日後復活→同母妹のヤタノヒメミコを奉って再度亡くなる →イハノヒメノミコトの嫉妬 父 ↓ 子 16仁徳(にんとく)天皇 (二)-p222 =オホサザキノ命(大鷦鷯天皇) ※サザキ(鷦鷯):ミソサザイという鳥の名 ※大鷦鷯(おほさざき)⇔稚鷦鷯(わかさざき):25武烈天皇 父:15応神天皇(第四子) 母:仲姫(なかつひめ) 皇后:磐之媛命(イハノヒメノミコト):嫉妬深く、家出 子:17履中天皇 =大兄去来穂別天皇(オホエノイザホワケノスメラミコト) 子:住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ) →黒媛(くろひめ)を姦す 子:18反正天皇 =瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと) 子:19允恭天皇 =雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわくごのすくねのすめらみこと) 皇后:ヤタノヒメミコ(八田皇女):ウジノワキイラツコノミコの同母妹 妃:日向髪長媛(ひむかのかみながひめ) 子:大草香皇子(オホクサカノミコ) →ネノオミ(根使主)の讒言で討たれる 子:幡梭姫皇女(ハタヒノヒメミコ) →21雄略天皇の皇后 皇太子:17履中天皇 ・先帝没後、オホヤマモリノミコの陰謀 「我、太子(ひつぎのみこ)を殺して、遂に帝位(あまつひつぎ)登(し)らむ」 紀(二)p228 →河に落とされて溺死 ・弟のウジノワキイラツコノミコ(太子)と皇位の譲り合い ウジノワキイラツコノミコ(太子)とオホサザキノミコト(16仁徳天皇) →3年間の空位,鮮魚の譲り合い →太子は自殺して兄(16仁徳天皇)に譲る →3日後復活→同母妹のヤタノヒメミコを奉って再度亡くなる →ヤタノヒメミコ(八田皇女)を妃として召し入れる →皇后が嫉妬して家出 ・質素な宮殿 ・「国中(くぬち)に烟(けぶり)発(た)たず。国皆貧窮(まづ)し。」(古事記) →3年間(以上)の課役(えつき)免除 ・息子の17履中,18反正(はんぜい),19允恭(いんぎょう)の3兄弟が皇位継承 ・"神"功-"応"神-"仁"徳 :ゴロ合わせ 父 ↓ 子 17履中(りちゅう)天皇 (二)-p280 =イザホワケノスメラミコト 父:16仁徳天皇 母:イハノヒメノミコト(磐之媛命) 弟:住吉仲皇子(すみのえのなかつみこ) 皇妃:黒媛(くろひめ) ※紀で「皇妃」の用例はここだけ 子:◎オシハノミコ(押羽皇子) :オケノスメラミコト(億計天皇=24仁賢天皇)の父 :ヲケノスメラミコト(弘計天皇=23顕宗天皇)の父 →21雄略天皇に殺される 皇后:草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ) ※黒姫没後 ※21雄略の皇后とは別人か、あるいは誤りか 皇太子:瑞歯別皇子(みつはわけのみこ) =18反正(はんぜい)天皇(同母弟) ・同母弟の住吉仲皇子が、太子の名を語り黒媛(くろひめ)を姦す →鈴を忘れて発覚→太子の家に火を放つ →弟の瑞歯別皇子(=18反正天皇)が天皇に加勢 →隼人を使ってナカツミコを討つ。 ・17履中,18反正(はんぜい),19允恭(いんぎょう)の3兄弟が皇位継承 兄 ↓ 弟 18反正(はんぜい)天皇 (二)-p300 =瑞歯別天皇(みつはわけのすめらみこと) 父:16仁徳天皇 母:磐之媛命(イハノヒメノミコト) 兄:17履中天皇 ・兄から譲位 ・美しい歯並び ・隼人を使って、17履中天皇の命で住吉仲皇子(同母兄)を討つ ・甥であるオホハツセノミコ(21雄略天皇=19允恭の子)に嫁ぐことを娘たちが拒み →「朝(あした)に見(みま)ゆる者は、夕(ゆうべ)には殺されぬ。 夕(ゆうべ)に見(みま)ゆる者は朝(あした)には殺されぬ…」 ・17履中,18反正(はんぜい),19允恭(いんぎょう)の3兄弟が皇位継承 兄 ↓ 弟 19允恭(いんぎょう)天皇 (二)-p304 父:16仁徳天皇 母:イハノヒメノミコト(磐之媛命) 兄:18反正天皇(同母兄) 皇后:忍坂大中姫命(オシサカノオホナカツヒメノミコ) 子:キナシノカルノミコ(木梨軽皇子) ※軽:地名 子:サカアイノクロヒコノミコ(坂合黒彦皇子) →21雄略天皇に殺される 子:20安康天皇 =アナホノスメラミコト(穴穂天皇) ※穴穂:地名 子:カルノオホイラツメノヒメミコ(軽大娘皇女) 子:ヤツリノヒロヒコノミコ(八釣白彦皇子) ※八釣:地名 →21雄略天皇に殺される 子:21雄略天皇 =オホハツセノワカタケノミコト(大泊瀬幼武尊) 皇太子:キナシノカルノミコ(木梨軽皇子) →同母妹との密通で継承できず ・兄から譲位 ・皇后の妹である衣通郎女(そとおしのいらつめ)=弟姫(おとひめ)に熱を上げる →「娘(をみな)奉る」「奉る娘子(をみな)は誰ぞ。」(二)-p318 →皇后が21雄略天皇を出産する際、19允恭天皇は衣通郎女の所にいた →皇后が自殺を図る ・木梨軽皇子と軽大娘皇女の近親相姦→自殺 ("19允恭の子が淫行" ゴロ) ・17履中,18反正(はんぜい),19允恭(いんぎょう)の3兄弟が皇位継承 父 ↓ 子 20安康(あんこう)天皇 (二)-p334 =穴穂皇子(あなほのみこ) ※穴穂:地名 父:19允恭(いんぎょう)天皇(第二子) 母:忍坂大中姫命(おしさかのおほなかつひめのみこ) 兄:◎21雄略天皇(同母兄) 皇后:ナカシヒメ(中蒂姫命) :大草香皇子(オホクサカノミコ)の妻 →大草香皇子の子(眉輪王)を出産 ・キナシノカルノミコ(木梨軽皇子、太子)と対立 ・オホハツセノミコ(21雄略天皇)のため、 大草香皇子(オホクサカノミコ)の妹(ハタビノヒメミコ)を求める(16仁徳の子) →ネノオミ(根使主)の讒言と、"押木玉縵"(おしきのたまかずら) の着服 →天皇は大草香皇子を殺し、その妻ナカシヒメを皇后に →ハタビノヒメミコはオホハツセノミコ(21雄略天皇)の妻に →ナカシヒメの腹にいたマヨワノオホキミ(眉輪王)が7歳になり天皇を殺す (父の仇) →弟オホハツセノミコ(21雄略天皇)による敵討ち ・"鮟鱇(アンコウ)迷わず(マヨワノキミ)" 兄 ↓ 弟 21雄略天皇 (三)-p16 =オホハツセノワカタケノミコト(大泊瀬幼武尊) ※大泊瀬⇔小泊瀬(をはつせ):25武烈天皇 ※はつせ(泊瀬):地名 奈良県桜井市初瀬近辺 =獲加多支鹵 ワカタケル(埼玉県 稲荷山古墳出土鉄剣銘) 父:19允恭(いんぎょう)天皇(第五子) 母:オシサカノオホナカツヒメノミコ(忍坂大中姫命) 兄:20安康天皇(同母兄) 皇后:ハタビノヒメミコ(幡梭皇女):16仁徳の子、大草香皇子の妹 ※17履中の皇后とは別人か、あるいは誤りか 妃:カラヒメ(韓媛) 子:22清寧天皇 妃:ワカヒメ(稚媛) 妃:ヲミナギミ(童女君) →一夜で妊娠 子:カスガノオホイラツメノヒメミコ(春日大娘皇女) :24仁賢天皇(オケノスメラミコト)の皇后 皇太子:22清寧天皇 ・乱暴、残酷な性格 ・18反正天皇(伯父)の娘たちが、オホハツセノミコ(21雄略天皇)に嫁ぐことを拒む 「朝(あした)に見(みま)ゆる者は夕(ゆうべ)には殺されぬ。 夕(ゆうべ)に見(みま)ゆる者は朝(あした)には殺されぬ…」 ・同母兄の20安康天皇がマヨワノオホキミ(眉輪王)に殺される →兄二人、マヨワノオホキミを討つ ・狩猟に誘い出し、オシハノミコ(押磐皇子)を射殺す →息子二人は逃走 オケノミコ(億計王)=24仁賢(にんけん)天皇 ヲケノミコ(弘計王)=23顕宗(けんぞう)天皇 ・三輪山の神を捕獲させる →少子部連螺羸(ちいさこべのむらじすがる) ・倭の五王の「武」にあたる ・ヤマトタケルとの共通性 ・「籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ…」(万葉集) 父 ↓ 子 22清寧(せいねい)天皇 (三)-p92 =シラカノタケヒロクニオシワカヤマトネコノスラミコト (白髪武広国押稚日本根子天皇) 父:21雄略天皇(第三子) 母:韓媛(からひめ) 皇太子:24オケノミコ(億計王) ・生まれながらにして白髪 ・24オケノミコ(億計王)、23(ヲケノミコ)弘計王について 「朕(われ)、子無し。以(も)て嗣(みつぎ)とせむ」 →崩御後、兄弟で皇位を譲り合い ----------------------------- 23顕宗(けんぞう)天皇 (三)-p102 =ヲケノスメラミコト(弘計天皇) 父:オシハノミコ(押磐皇子):17履中天皇の皇子 :17履中天皇と黒媛(くろひめ)の皇子 :21雄略天皇に殺される 母:ハエヒメ(荑媛) ※草木の芽生えのことか 兄:24仁賢天皇(同母兄) 皇后:難波小野王(なにわのをののみこ) →24仁賢天皇への無礼を案じて自殺 ・父が21雄略天皇に殺される ・兄の24仁賢天皇と皇位を譲り合う ・父親(押磐皇子)の骨さがし →仲子(なかちこ)の骨と父親の骨が入り交じって見分けがつかず 弟 ↓ 兄 24仁賢(にんけん)天皇 (三)-p132 =オケノスメラミコト(億計天皇) 父:オシハノミコ(押磐皇子):17履中天皇の皇子 母:ハエヒメ(荑媛) ※草木の芽生えのことか 弟:23顕宗天皇(同母弟) 皇后:カスガノオホイラツメ(春日大娘) :21雄略天皇の一夜の交わりでできた娘 子:タシラカノヒメミコ(手白皇女) →継体皇后 子:25武烈天皇 =ヲハツセノワカサザキノミコト(小泊瀬稚鷦鷯尊) 皇太子:25武烈天皇 =ヲハツセノワカサザキノミコト(小泊瀬稚鷦鷯尊) ・父が21雄略天皇に殺される ・弟の23顕宗天皇と皇位を譲り合う ・父親の仇(21雄略天皇)の娘が皇后 ・ナニワノヲノノキサキ(難波小野皇后、先帝の皇后)が、以前の無礼を恐れて自殺 父 ↓ 子 25武烈天皇 (三)-p144 =ヲハツセノワカサザキノスメラミコト(小泊瀬稚鷦鷯天皇) ※小泊瀬(をはつせ)⇔大泊瀬(おほはつせ):21雄略天皇 はつせ(泊瀬):地名 奈良県桜井市初瀬近辺 ※鷦鷯(わかさざき)⇔大鷦鷯(おほさざき):16仁徳天皇 ※この対比については岩波文庫「日本書紀」(三) 巻16 武烈天皇の注に詳しい 父:24仁賢(にんけん)天皇 =億計天皇(おけのすめらみこと) 母:春日大娘(かすがのおほいらつめ) :21雄略天皇の一夜の交わりでできた娘 皇后:春日娘子(かすがのいらつめ) ・影媛(かげひめ)への横恋慕 →鮪(しび)を奈良山で殺す ・妊婦の腹を割いて胎児を見る ・人の生爪を抜いて、芋を掘らせる ・人の髪を抜き、樹に登らせて、樹を倒して殺して楽しむ ・樋に人を流して、矛で刺し殺して楽しむ ・人を木に登らせて、弓で射落として笑う ・女性たちに馬と性交させる ・跡継ぎおらず ----------------------------- 26継体天皇 (三)-p162 父:ヒコウシノオホキミ(彦主人王):15応神天皇の五世孫 母:フルヒメ(振媛):11垂仁天皇の七世の孫 皇后:タシラカノヒメミコ(手白皇女):24仁賢天皇の娘 子:29欽明天皇 =天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろきにわのみこと) 后妃:目子媛(メノコヒメ) 子:27安閑天皇 =勾大兄皇子(まがりのおほえのみこ) ※勾(まがり):地名 橿原市曲川町 子:28宣化天皇 =檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ) 皇太子:27安閑(あんかん)天皇 =勾大兄(まがりのおほえ) ・機外出身(越?、近江?) ・磐井の乱(527年) 筑紫国造磐井が反逆 ←物部麁鹿火(もののべのあらかい)を派遣 ・継体天皇の出自については→岩波文庫「日本書紀」(三) 補注17-2 ・次の3代は息子3人:27安閑・28宣化・29欽明 父 ↓ 子 27安閑(あんかん)天皇 (三)-p212 =マガリノオホエ(勾大兄) ※勾(まがり):地名 橿原市曲川町 父:26継体天皇(第一子) 母:メノコヒメ(目子媛) 弟:28宣化天皇(同母弟) 皇后:山田皇女(やまだのひめみこ) 妃:サテヒメ(紗手媛) 妃:カカリヒメ(香香有媛):紗手媛の妹 妃:ヤケヒメ(宅媛) ・子供がいない ・26継体の息子3代:27安閑・28宣化・29欽明 兄 ↓ 同母弟 28宣化(せんか)天皇 (三)-p226 父:26継体天皇 母:目子媛(めのこひめ) 兄:27安閑天皇(同母兄) 皇后:橘仲皇女(たちばなのなかつひめみこ) 子:石姫(いしひめ):29欽明天皇の皇后 ・先帝に後嗣(あとつぎ)がおらず、先帝の弟が即位 ・「食(くらひもの)は天下(あめした)の本(もと)なり。」 ・26継体の息子3代:27安閑・28宣化・29欽明 ↓ 兄弟 29欽明(きんめい)天皇 (三)-p234 父:26継体天皇 母:タシラカノヒメミコ(手白皇女) 兄:28宣化天皇(異母兄) 皇后:イシヒメ(石姫) =28宣化天皇の娘 子:30敏達天皇 =渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふてたましきのみこと) 后妃:ワカアヤヒメ(稚綾姫) :皇后の妹 后妃:日影皇女(ひかげのみこ) 后妃:キタシヒメ(堅塩媛) :稲目の娘 子:31用明天皇 =オホエノミコ(大兄皇子) :聖徳太子の父 子:33推古天皇 =トヨミケカシキヤヒメノミコト(豊御食炊屋姫尊) 后妃:小姉君(ヲアネノキミ) :稲目の娘,キタシヒメの同母妹 子:泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ) :聖徳太子の母,31用明天皇の皇后 子:泥部穴穂部皇子(はしひとのあなほべのみこ) →カシキヤヒメノキサキ(=33推古女帝=異母姉妹!)をレイプ未遂 →後に馬子に討たれる 子:32崇峻天皇 =ハツセベノミコ(泊瀬部皇子) 皇太子:30敏達天皇 =ヌナクラノフテタマシキノミコト(渟中倉太珠敷尊) 大臣:蘇我稲目 ・父(26継体天皇)の寵愛を受ける ・仏教公伝(538年?/552年?) 百済の聖明王より ・仏を祀るべきか否かを群臣にたずねる →賛成:蘇我稲目 →反対:物部尾輿(おこし),中臣鎌子(かまこ) →稲目に礼拝させる →疫病の流行 →仏像を難波の海へと続く水路に捨てる、寺を焼く →宮の大殿に火災 →海中から見つかる ・蘇我稲目没 :馬子,キタシヒメ,小姉君(をあねのきみ)の父 ・病の床で皇太子に遺言 「汝(いまし)、新羅(しらき)を打ちて、任那(みまな)を封(よさ)し建つべし。 ・26継体の息子3代:27安閑・28宣化・29欽明 ・これより29欽明の子4代:30敏達・31用明・32崇峻・33推古 (31~33は稲目の孫) 父 ↓ 子 30敏達(びだつ)天皇 (四)-p16 父:29欽明天皇 母:イシヒメ(石姫) :28宣化天皇の娘 皇后:ヒロヒメ(広姫) →没 子:オシサカノヒコヒトノオオエノミコ(押坂彦人大兄皇子) :34舒明天皇の父 皇后:33推古天皇(異母兄妹) =トヨミケカシキヤヒメノミコト(豊御食炊屋姫尊) 子: ウジノカイダコノヒメミコ(菟道貝鮹皇女):聖徳太子の妃(紀 敏達記五年春 大臣:蘇我馬子 ・カラスの羽に記された高麗の国書 →王辰爾(おうじんに)の解読 ・蘇我馬子の仏舎利(割れず、願うままに水に浮き沈み) ・物部守屋の排仏進言 →仏殿・仏像を焼く →天皇・物部守屋が疱瘡(天然痘?)を罹患、疱瘡の流行 ◎物部守屋と蘇我馬子の対立 :敏達没後の殯宮(もがりのみや)で 守屋→馬子:「猟箭(ししや)中(お)へる雀鳥(すずみ)の如し」 (大きい矢で射られた雀のようだ) ※小さい体に大刀を帯びた馬子をからかう 馬子→守屋:「鈴を懸(か)くべし」 ※体を震わす守屋をからかう ・敏達没後の殯宮(もがりのみや)で、穴穂部皇子(あなほべのみこ)が カシキヤヒメノキサキ食炊屋姫皇后)=33推古女帝=同母姉妹!)を犯そうとする →妨害した三輪君逆(みわのきみさかう)を殺す ・29欽明の子4代:30敏達・31用明・32崇峻・33推古 (31~33は稲目の孫) ↓ 兄弟 31用明(ようめい)天皇 (四)-p52 父:29欽明天皇 母:キタシヒメ(堅塩媛):稲目の娘 皇后:ハシヒトノアナホベノヒメミコ(泥部穴穂部皇女):29欽明の娘 子:聖徳太子 =ウマヤトノミコ(厩戸皇子) 妹:33推古天皇(同母妹) 大臣:蘇我馬子 ・29欽明の子4代:30敏達・31用明・32崇峻・33推古 (31~33は稲目の孫) ★聖徳太子 父:31用明天皇 母:アナホベノヒメミコ(穴穂部皇女):29欽明の娘 子:◎山背大兄王(ヤマシロノオホエノオウ) →入鹿勢の襲撃で自殺 祖母:小姉君(ヲアネノキミ) 曾祖父:蘇我稲目 ・仏法を慧慈(えじ)より習う ・儒教の教典を覚哿(かくか)より学ぶ ・仏教の興隆をはかる ・冠位十二階の制定(603) ・十七条の憲法(604) ・大礼(だいらい)小野妹子の第2次遣隋使(607) ↓ 兄弟 32崇峻(すしゅん)天皇 (四)-p62 父:29欽明天皇 母:小姉君(をあねのきみ):稲目の娘 大臣:蘇我馬子 ・蘇我馬子がアナホベノミコを討つ :29欽明の子、32崇峻の兄弟 ・馬子,ハツセベノミコ(32崇峻天皇),聖徳太子の軍勢が物部守屋(もりや)を滅ぼす →聖徳太子が四天王に願掛け →四天王寺の建立 →馬子の願掛け →法興寺(飛鳥寺)の建立 →32崇峻天皇即位 ・猪が献上される →「何(いづれ)の時にかこの猪(しし)の頸(くび)を断(き)るが如く、 朕(わ)が嫌(ねた)しと思う所の人を断(き)らむ」(紀) →馬子に暗殺される(東の調(みつき)) ・29欽明の子4代:30敏達・31用明・32崇峻・33推古 (31~33は稲目の孫) ↓ 異母姉妹 33推古天皇(女帝) (四)-p82 =トヨミケカシキヤヒメノミコト(豊御食炊屋姫尊) 幼名:ヌカタベノヒメミコ(額田部皇女) 父:29欽明天皇 母:堅塩媛(きたしひめ):稲目の娘 姉:31用明天皇(同母姉) 夫:30敏達天皇 皇太子:聖徳太子 =厩戸皇子(うまやとのみこ) (31用明天皇-泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)) ・古事記の記述は推古天皇まで ・聖徳太子の薨去後、皇太子を立てず→崩御後皇位継承の紛議 ・"さんざん(33)な目にあう推古女帝"=第33代(強姦未遂) ・29欽明の子4代:30敏達・31用明・32崇峻・33推古 (31~33は稲目の孫) ・618隋が滅び、唐が興る ・長命(75歳) ------------------------------------------------------------------------- 古事記は推古天皇まで 万葉集は舒明天皇から ------------------------------------------------------------------------- 34舒明(じょめい)天皇 629-41 (四)-p152 =田村皇子(たむらのみこ) 父:オシサカノヒコヒトノオホエノミコ(押坂彦人大兄皇子):30敏達天皇の皇子 母:アラテヒメノミコ(糠手姫皇女) 皇后:35皇極天皇 =37斉明天皇=宝皇女(たからのひめみこ) 子:38天智天皇 =葛城皇子(カズラキノミコ) 子:ハシヒトノヒメミコ(間人皇女) :36孝徳天皇の皇后 子:40天武天皇 =大海皇子(オオアマミコ) 夫人(おほとじ):ホホテノイラツメ(法堤郎媛) :馬子の娘 子:古人皇子(フルヒトノミコ) →皇位を固辞して出家(吉野へ) ・聖徳太子の薨去(622)後、33推古天皇が皇太子を立てず →34田村皇子(タムラノミコ)と山背大兄皇子(ヤマシロノオホエノミコ)に遺言 →33推古天皇崩御後、遺言をめぐって皇位継承の紛議 →34田村皇子(たむらのみこ)が即位 ・630遣唐使の派遣(第一回) ↓ 皇后 35皇極(こうぎょく)天皇(女帝) 642-645 (四)-p186 =宝皇女(たからのひめみこ) =37斉明天皇(重祚) 父:茅渟王(ちぬのおおきみ):30敏達天皇の孫 母:吉備姫王(きびつひめのおおきみ) 弟:36孝徳天皇(同母弟) 夫:34舒明天皇 子:38天智天皇 =葛城皇子(かずらきのみこ) 子:間人皇女(はしひとのひめみこ) :36孝徳天皇の皇后 子:40天武天皇 =大海皇子(おおあまのみこ) 大臣:蘇我蝦夷(馬子の子) ・皇位継承争いを避けるべく,先帝の皇后が即位 ・蘇我氏の増長 ・蝦夷・入鹿が、聖徳太子の部民を使って生前墓(古墳)をつくる ・入鹿勢が山背大兄王(ヤマシロノオホエノオウ、聖徳太子の子)を急襲 →山背大兄王は自決 →蝦夷「噫(あ)、入鹿、極甚(はなは)だ愚痴(おろか)にして、 専(たくめ)行暴悪(あしきわざ)す。」 ・乙巳(いつし)の変、大化の改新(645) :中大兄(なかのおおえ)と中臣鎌子(かまこ)が、 南淵請安(みなみぶちしょうあん)の元で密会 →宮中で入鹿を討つ →2日後、35皇極天皇が譲位 ・35皇極天皇が史上初の生前譲位(姉→弟) →38中大兄:中臣鎌子の助言で辞退 →古人大兄:皇位を固辞して出家(吉野へ):34舒明天皇の子 →弟の36軽皇子(カルノミコ)が即位 →36孝徳天皇 姉 ↓ 弟 36孝徳天皇 645-54 (四)-p236 =軽皇子(カルノミコ) ※カル(軽):地名;42文武天皇も軽皇子だが別人 父:茅渟王(ちぬのおおきみ):30敏達天皇の孫 母:吉備姫王(きびつひめのおおきみ) 姉:35皇極天皇(同母姉) =37斉明(さいめい)天皇 皇后:ハシヒトノヒメミコ(間人皇女) :34舒明天皇の皇女、38中大兄の妹 妃(みめ):小足媛(をたらしひめ) 皇太子:38天智天皇(甥) =中大兄皇子 大臣:蘇我蝦夷 ・35皇極天皇が史上初の生前譲位(姉→弟) →38中大兄:中臣鎌子の助言で辞退 →古人大兄:皇位を固辞して出家(吉野へ) →36軽皇子(カルノミコ)が即位 →36孝徳天皇 ・古人皇子(ふるひとのみこ)の謀叛計画と失敗 ・646 改新の詔 ①公地公民制 ②地方行政組織の設定 ③戸籍・班田収授の法 「班田」:口分田をあたえること →戸籍が形骸化し、班田収受は902年を最後に行われなくなる ④税制の改定 ・薄葬令 ・古墳の築造を制限 ・殯(もがり)の禁止 ・殉死の禁止 ・38中大兄皇子の遷都進言を棄却 →中大兄皇子(甥)は35皇極上皇、37皇后、40大海人皇子を連れて飛鳥にもどる →36孝徳天皇は難波宮(なにわのみや)に置き去り →翌年没 ・皇太子は中大兄(29歳)だが、35皇極天皇が重祚(理由は謎) 弟 ↓ 姉 37斉明(さいめい)天皇(女帝) 655-661 (四)-p330 =35皇極天皇(重祚) =宝皇女(たからのひめみこ) ・史上初の重祚(ちょうそ) ・阿部比羅夫(あべのひらふ)が日本海側を北上し、蝦夷討伐 ・白村江の戦い(663)の最中に没 母 ↓ 子 38天智(てんじ)天皇 称制661-668, 在位668-671 (五)-p16 =葛城皇子(カズラキノミコ) =中大兄皇子 父:34舒明天皇 母:35皇極天皇 =37斉明天皇 弟:◎40天武天皇 =大海人皇子(オホアマノミコ) 皇后:倭姫(やまとひめ) :古人大兄皇子(フルヒトノオホエノミコ)の娘 嬪(みめ):ヲチノイラツメ(遠智娘) 子:41持統天皇=ウノノヒメミコ(鸕野皇女) :40天武天皇の皇后 子:タケルノミコ(建皇子) :言葉が不自由 嬪(みめ):姪娘(めいのいらつめ) 子:43元明天皇 =アヘノヒメミコ(阿閉皇女) 嬪(みめ):橘娘(タチバナノイラツメ) 子:新田部皇女(ニイタベノヒメミコ) →40天武天皇の妃 皇太弟:40天武天皇 =大海人皇子(オホアマノミコ) 又宮(まためしをみな、後宮女官):伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ) 子:39弘文天皇 =大友皇子(オホトモノミコ) =伊賀皇子(イガノミコ) ・乙巳(いつし)の変(645) :宮中、35皇極天皇の目前で入鹿を討つ ・白村江の戦い(663) :[日本・百済]vs[唐・新羅] →百済滅亡 →37斉明天皇崩後も、称制のまま対朝鮮戦略の指揮をとる →額田王「熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」(万葉集) →国防の強化 →防人の設置 →水城(みずき)の建設(筑紫) ・飛鳥→近江大津宮へ遷都(667) ・近江大津宮で即位(668) ・近江令(現存せず、実在性も不明) ・庚午年籍(こうごねんじゃく) :初の全国規模の戸籍 ・病床の中臣鎌足に藤原姓を賦与(669) :藤原氏の元祖 ※藤原:大和国の地名、中臣氏ゆかりの地 ・38天智天皇の病床で、40大海人皇子が謀(はかりごと)を疑って皇位継承を固辞 →出家、吉野へ →或(あるひと)の曰く、「虎に翼を着けて放てり」といふ ・「秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は露にぬれつつ」(百1) 父 ↓ 子 39弘文天皇 671-672 ※日本書紀に記述なし =大友皇子(オホトモノミコ) =伊賀皇子(イガノミコ) 父:38天智天皇 母:伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ) ・壬申の乱(672) →筑紫大宰(ツクシノオホミコトモチ)栗隈王(クルクマノオオキミ)が出兵拒否 「筑紫国(つくしのくに)は、元より辺賊(ほか)の難(わざはひ)を戌(まも)る」 甥 ↓ 叔父 40天武(てんむ)天皇 673-686 (五)-p66 =大海人皇子(オホアマノミコ) 父:34舒明天皇 母:35皇極天皇(=37斉明天皇) 兄:38天智(てんじ)天皇 皇后:41持統天皇 =ウノノヒメミコ(鸕野皇女) :38天智天皇の娘 子:◎草壁皇子(クサカベノミコ) →28歳で急逝 :◎42文武天皇(軽皇子)の父 妃:大田皇女(オホタノヒメミコ) :皇后の姉 子:大来皇女(オホクノヒメミコ) 子:◎大津皇子(オホツノミコ) →41持統天皇に殺される 妃:新田部皇女(ニイタベノヒメミコ) :38天智天皇の娘 子:◎舎人親王(とねりしんのう) :47淳仁天皇の父、日本書紀編纂の総裁 夫人(おほとじ):イホヘノイラツメ(五百重娘) 子:新田部親王(にいたべのみこ):フナドノオウ(道祖王)の父 ?:尼子娘(あまこのいらつめ) 子:◎高市皇子(たけちのみこ) :壬申の乱で活躍、長屋王の父 孫:◎長屋王 皇太子:草壁皇子(クサカベノミコ) →28歳で急逝 ・壬申の乱で近江朝廷を破り、皇位につく ・「凡(おおよ)そ政(まつりごと)の要(かなめ)は軍(いくさ)の事なり」 ・飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)を造営 ・対馬で銀が産出(日本で初めて) :天武三年 ・吉野の盟約 :天武八年 ・律令の制定に着手(681) →689飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう) ※「律」はなく「令」だけ →701大宝律令 ・跪礼(きれい)→立礼 ・富本銭(ふほんせん) :日本の最古の貨幣か? ・占いに長じる ・40天武没後、草壁皇子は皇位につかず、 ウノノヒメミコ(41持統天皇)=母が称制を行う ・40天武・41持統・42文武 : 祖父・祖母・孫 ↓ 皇后 41持統天皇(女帝) 称制686-689, 在位690-697 (五)-p232 =ウノノヒメミコ(鸕野皇女) 父:38天智天皇 母:遠智娘(おちのいらつめ) 夫:40天武天皇 子:草壁皇子(クサカベノミコ) :42軽皇子(カルノミコ)の父 →28歳で急逝 孫:◎軽皇子(カルノミコ) =42文武天皇 ・大津皇子(オオツノミコ)の謀叛が発覚 →ウノノヒメミコ(=41持統天皇)が草壁皇子を皇太子にするための謀略 ・草壁皇子が薨去(689) ・孫の42軽皇子(カルノミコ)が成長するまでの中継ぎとして即位(それまでは称制) ・律令の編纂を継承 ・飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の施行(最初の体系的な「令」(=行政法)) ◎藤原京の完成と遷都(694): 日本で初めての本格的な都城(宮→京) 41持統、42文武、43元明がの3代が16年間居住 ・42文武天皇に譲位後も、41太上天皇(上皇)として文武を後見 ・「春過ぎて夏きたるらし白妙の 衣ほしたり天(あめ)の香具山」」(百2) ・天皇としてはじめての火葬 →40天武の野口王墓山古墳(のぐちおうのはかやまこふん)に合葬 ・日本書紀は41持統天皇まで ・40天武・41持統・42文武 : 祖父・祖母・孫 祖母 ↓ 孫 42文武(もんむ)天皇 697-707 =軽皇子(カルノミコ) ※カル(軽):地名;36孝徳天皇も軽皇子だが別人 祖父:40天武天皇(草壁皇子の父),38天智天皇(43元明天皇の父) 祖母:41持統天皇 父:草壁皇子(クサカベノミコ) :40天武と41持統の子 母:43元明天皇 =アヘノヒメミコ(阿閉皇女) :38天智天皇の皇女 姉:44元正天皇 夫人:◎宮子 :不比等の娘 子:◎45聖武天皇 =首親王(おびとしんのう) ・41持統天皇(祖母)の寵愛を受ける ・15歳で即位(41持統上皇の後見)するも、25歳で崩御 ・藤原姓を不比等だけに限定する ◎大宝律令の完成(701) :不比等が編纂の中心 ・遣唐使の派遣 :粟田真人(あわたのまひと) :山上憶良(やまのうえのおくら) :初めて「日本」の国号を用いる ・40天武・41持統・42文武 : 祖父・祖母・孫 子 ↓ 母 43元明(げんめい)天皇(女帝) 707-715 =阿閉皇女(あへのひめみこ):42文武天皇の母、38天智天皇の皇女 父:38天智天皇(第四皇女) 母:姪娘(めいのいらつめ) 夫:草壁皇子(クサカベノミコ) :41天武と41持統の子 子:44元正天皇 =氷高(ひだか) 子:42文武天皇 =軽皇子(カルノミコ) ・息子から母への譲位! ・孫の首親王(おびとしんのう、45聖武天皇)への中継を意図か ・和同開珎 :開元通宝(唐代の銅銭)が手本 →708武蔵の国で和銅(銅鉱石ではなく、銅そのもの)が発見される →年号を和銅に (同年平城京の建設が開始) →和同開珎 ◎平城京遷都(710,和銅3年)■■■■■■■■奈良時代■■■■■■■■■■■■■ 平城(へいぜい)京 唐の長安城が手本 朱雀門 ・古事記の撰上(712) 太安万侶(おおのやすまろ) 母 ↓ 娘 44元正(げんしょう)天皇(女帝) 715-724 諱:氷高(ひだか) 父:草壁皇子(クサカベノミコ) :41天武と41持統の子 母:43元明天皇 =アヘノヒメミコ(阿閉皇女) 弟:42文武天皇 =軽皇子(カルノミコ) 甥:45聖武天皇 =首皇子(おびとのみこ) :42軽皇子の子 皇太子:45聖武天皇 =首皇子(おびとのみこ) ◎初の未婚の女帝 :これまでの女帝はすべて天皇(または皇位継承予定者)の妻であった ・45聖武天皇(首皇子)までの中継ぎ ・45聖武天皇の伯母 ・藤原四兄弟(不比等の四子)の政界進出 南家・北家・式家・京家 伯母 ↓ 甥 45聖武天皇 724-749 =首皇子(おびとのみこ) 外祖父:藤原不比等 父:◎42文武天皇(軽皇子) 母:◎宮子=藤原夫人(ぶにん) :不比等の娘! 伯母:44元正天皇 皇后:◎光明皇后(光明子) :不比等の娘 ! 娘:46孝謙天皇 =48称徳天皇 =阿部内親王 皇太子:46孝謙天皇 =48称徳天皇 =阿部内親王 :初の女性皇太子 左大臣:◎長屋王:高市皇子(タケチノミコ)の子、40天武天皇の孫 ◎聖武天皇は母親(宮子)も皇后(光明子)も不比等の娘 ◎藤原氏の血を引く最初の天皇 ◎「皇女だけが皇后になる」という慣例を破る(光明皇后) ・藤原夫人に大夫人(だいぶにん)の称号賦与 →長屋王が難癖をつける →後の長屋王の変につながる ・光明子が聖武の第一皇子を出産、生後1ヶ月で立太子(727) →夭折 :長屋王への牽制 ◎長屋王の変(729) 長屋王: 40天武天皇の孫 ◎高市皇子(たけちのみこ)の子 藤原氏の朝廷進出に対する皇族側の反対勢力 :「密かに左道を学び、国家を傾けようとしている」 →藤原4兄弟が長屋王邸を包囲し自殺させる →◎藤原氏の躍進 →◎光明子(不比等の娘)が妃から后 皇族でない女性が皇后に! ・平城京に行基(ぎょうき)が現れる:朝鮮半島からの渡来系氏族 ・地震 ・天然痘の流行 →藤原四兄弟(不比等の息子たち)病没(737) ・玄昉,吉備真備(きびのまきび)が中国から帰国:反藤原派の勢力 ・藤原広嗣の乱(740) 広嗣:宇合(式家)の子 玄昉,吉備真備の排斥を求める上表を提出し、九州で挙兵 →鎮圧 ・大仏造立の詔(743) ・「朕(ちん)意(おも)ふ所有るに縁(よ)りて、今月の末暫く関東に往かむ。…」 →遷都を繰り返す5年間の彷徨 :平城京 →◎740恭仁京(くにきょう)遷都(山背国 現京都府) →◎744難波京(なにわきょう)遷都 →◎744紫香楽宮(しがらきのみや)遷都 →◎745平城京遷都 ・733栄叡(ようえい)・普照(ふしょう)が唐に渡る→菩提、鑑真の招請 ◎741国分寺建立の詔(みことのり) :全国に同名の寺院をつくらせる(東大寺:総国分寺) ◎743墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう) ◎743大仏造立の詔 ・陸奥から金が産出 ・出家→46阿部皇太子(娘)に譲位 父 ↓ 娘 46孝謙天皇(女帝) 749-758 =48称徳(しょうとく)天皇(重祚) =阿部内親王(あべのないしんのう) 父:45聖武天皇 母:光明皇后 皇太子:道祖王(ふなどのおおきみ):40天武の孫 →素行不良で皇太子を廃される 皇太子:47淳仁(じゅんにん)天皇 =47大炊王(おおいのおおきみ) :40天武の孫 ・血の3/4が藤原氏 ・史上初の女性皇太子 ◎藤原仲麻呂が紫微内相(しびないしょう、軍事総監)に就任し政治の実権を握る :不比等の孫、武智麻呂(南家)の子 ・吉備真備(きびのまきび)を筑紫守に左遷 ・道祖(ふなど)王(40天武の孫)を皇太子からはずす →47大炊王が皇太子に(仲麻呂と懇意、40天武の孫) ・大仏完成(752) ◎道鏡を寵愛(譲位後、46孝謙の病気を治す) ・道鏡のことで47淳仁天皇から苦言を呈される →46孝謙は出家 ・譲位後、47淳仁天皇と対立 ◎764押勝の乱(藤原仲麻呂の乱) [46孝謙上皇・道鏡・坂上田村麻呂]vs[47淳仁天皇・藤原仲麻呂] →押勝(仲麻呂)は斬首 →南家の凋落 →47淳仁天皇は淡路島に幽閉される →46孝謙上皇が48称徳天皇として重祚(ちょうそ) →48称徳(=46孝謙)は百万塔をつくらせる 47淳仁(じゅんにん)天皇 758-764 諱:大炊王(おおいのおおきみ) 父:舎人親王(とねりしんのう):40天武天皇の第三子 母:大夫人当麻山背(だいぶにんたぎまのやましろ) ・藤原仲麻呂が藤原恵美朝臣押勝という名称を賜る: 不比等の孫、武智麻呂(南家)の子 ◎仲麻呂の専横 ・46孝謙上皇に、道鏡のことで苦言を呈する →46孝謙は出家 ◎764押勝の乱(藤原仲麻呂の乱) [46孝謙上皇・道鏡・坂上田村麻呂]vs[47淳仁天皇・藤原仲麻呂] →押勝(仲麻呂)は斬首 →南家の凋落 →47淳仁天皇は淡路島に幽閉される →46孝謙上皇が48称徳天皇として重祚(ちょうそ) 48称徳(しょうとく)天皇(女帝)764-770 =46孝謙天皇 =阿部内親王(あべのないしんのう) 皇太子:なし ・764押勝の乱(藤原仲麻呂の乱) [46孝謙上皇・道鏡・坂上田村麻呂]vs[47淳仁天皇・藤原仲麻呂] →押勝(仲麻呂)は斬首 →47淳仁天皇は淡路島に幽閉される →46孝謙上皇が48称徳天皇として重祚(ちょうそ) →48称徳(=46孝謙)は百万塔をつくらせる ◎初の、出家したままの天皇 ・道鏡を「法王」に任ずる ・宇佐八幡の神託「道鏡を皇位に即(つ)かしめば、天下太平ならむ」 →道鏡を皇位につけることには失敗 ◎皇太子を定めず →没後、次の天皇は62歳の白壁王(=49光仁)に →皇統が40天武系から38天智系に ----------------------------- 40天武系→38天智系 ----------------------------- 49光仁(こうにん)天皇 770-781 諱:白壁王 祖父:◎38天智天皇 父:施基皇子(しきのみこ):38天智天皇の息子 母:橡姫(とちひめ) 皇后:井上(いのうえ/いがみ)内親王 →大和国宇智群に幽閉 子:他戸親王(おさべしんのう) →廃太子・大和国宇智群に幽閉 夫人(?):◎高野新笠(たかののにいがさ) :白村江の戦いで亡命してきた百済王家出身 子:50桓武天皇 =山部親王(やまべのしんのう) 皇太子:他戸親王(おさべしんのう) →廃太子・大和国宇智群に幽閉 皇太子:50桓武天皇 =山部親王(やまべのしんのう) ・38天智天皇の孫 ・40天武系から38天智系への転換 ・紀広純(きのひろずみ)が蝦夷出身の伊治砦麻呂(これはりのあざまろ)を侮辱 →伊治砦麻呂は紀広純を殺害し、多賀城を焼き払う →◎38年に及ぶ国家vs蝦夷の戦争 ・百川(ももかわ)が50桓武天皇の立太子に貢献 父 ↓ 子 50桓武天皇 781-806 父:49光仁天皇(白壁王) 母:高野新笠(たかののにいがさ) :白村江の戦いで亡命してきた百済王家出身 弟:◎早良親王(さわらしんのう) :同母弟 →配流(絶食死)され怨霊となる 皇后:藤原乙牟漏(おとむろ) (式家) 子:51平城(へいぜい)天皇 子:52嵯峨天皇 夫人:藤原旅子(たびこ) :百川の娘 子:53淳和(じゅんな)天皇 夫人:坂上又子(またこ) 夫人:藤原吉子(きっし) :南家 子:伊予親王(いよしんのう) :桓武天皇の寵愛を受ける →桓武天皇の崩御の翌年に謀叛の疑いを受けて幽閉され、服毒自殺 皇太子:◎早良親王(さわらしんのう) :同母弟 →配流され船中で絶食死 皇太子:51平城(へいぜい) =安殿親王(あてしんのう) ◎桓武平氏の始祖 ・不破内親王(45聖武天皇の娘)とその子(氷上川継)を流罪 ◎長岡京遷都(784) :渡来系氏族の秦氏(はたし)の居留地 ・785藤原種継(たねつぐ)が暗殺される(長岡京づくりの責任者) →◎早良(さわら)親王(同母弟)を共犯者として配流(船中で絶食死) →怨霊となり数々の災厄をもたらす (怨霊思想の始まり) ・在原業平(父:阿呆親王,母:伊都内親王)の祖父 ◎平安遷都(794)■■■■■■■これより平安時代(794-1192)■■■■■■■■■ ・「緒嗣(おつぐ)の父(百川)がいなかったら、私は帝位につけなかった」 →緒嗣を参議に ◎坂上田村麻呂を蝦夷討伐に派遣(東北) ・遣唐使の派遣(804): ◎最澄(天台宗・比叡山延暦寺) ◎空海(真言宗・金剛峯寺) ・緒嗣が、蝦夷討伐の中止と平安造都の中止を進言 ・51平城,52嵯峨,53淳和の3人を選んで自分の娘と結婚させる(純血思想) ・"号令(50)遷都の桓武天皇"語呂合わせ 父 ↓ 子 51平城(へいぜい)天皇 806-809 父:50桓武天皇(第一子) 母:藤原乙牟漏(おとむろ) 子:高丘親王 →52嵯峨の皇太子となるも薬子の変で廃太子 尚侍:◎薬子(くすこ):種継の娘(式家) 弟:52嵯峨天皇(同母弟) 皇太子:52嵯峨天皇(同母弟) ・病弱 ・父(50桓武)の死に遭遇し、手足をバタバタさせて泣く ・在原業平(父:阿呆親王,母:伊都内親王)の祖父 ・妃の母である薬子と関係を持つ ・52嵯峨の皇太子に自分の子である高丘親王をつける ・3年余りで弟の52嵯峨に譲位 →上皇となって平城旧京へ隠棲 →51平城上皇方と52嵯峨天皇方が対立(二所朝廷) →◎薬子の変(810): [51平城上皇・薬子・仲成(なかなり)] vs [52嵯峨天皇・坂上田村麻呂] ※同母兄弟の争い →51平城上皇が平城京に都を移すことを宣言(810) →薬子は自害、51平城上皇は出家して平城旧宮へ →高丘親王は廃太子 →出家(東大寺) →入唐 →式家は勢力を失う ・50桓武の息子3代 :51平城-52嵯峨-53淳和 兄 ↓ 同母弟 52嵯峨天皇 809-823 父:50桓武天皇(第二子) 母:藤原乙牟漏(おとむろ) 兄:51平城天皇(同母兄) 弟:53淳和天皇 皇后:橘嘉智子(かちこ) 子:54仁明天皇 =正良(まさら)親王 皇太子:高丘親王(51平城天皇の第三子) →薬子の変で廃太子 →出家(東大寺) →入唐 皇太子:53淳和天皇(大伴皇子) :異母弟、50桓武天皇の第三皇子 ・兄の51平城天皇が3年余りで弟の52嵯峨に譲位 →上皇となって平城旧京へ隠棲 →52嵯峨天皇方と51平城上皇方で対立(二所朝廷) →◎薬子の変(810): [52嵯峨・坂上田村麻呂] vs [51平城・薬子・仲成(なかなり)] ※同母兄弟の争い →51平城太上天皇が平城京に都を移すことを宣言(810) →薬子は自害、51平城上皇は平城旧宮へ →高丘親王は廃太子 →出家(東大寺) →入唐 →式家は勢力を失う ・蔵人所の設置(810) ・冬嗣・北家の台頭 冬嗣:初代蔵人頭→参議→右大臣→左大臣 娘の順子を54仁明に入れる ◎子女8人に源姓を与え、臣籍とする(嵯峨源氏) ※賜姓源氏の始まり ※源信(みなもとのまこと)810-869:応天文の変で嫌疑 ※源融(みなもとのとおる)822-895 :光源氏のモデルのひとり 百14、能の「融(とおる)」の題材 ※源潔姫(みなもとのきよひめ):良房の妻 ・検非違使の設置(816頃):平安京や機内の治安維持 ・関東で大地震(818) ・空海に東寺を下賜する(823) ・弘仁文化 ・能筆家、三筆の一人 :空海、橘逸勢(はやなり) ・50桓武の息子3代 :51平城-52嵯峨-53淳和 ・52嵯峨-53淳和-54仁明と迭立 兄 ↓ (異母)弟 53淳和(じゅんな)天皇 823-833 父:50桓武天皇(第三子) 母:旅子 :百川の娘 兄:51平城天皇(異母兄) 兄:52嵯峨天皇(異母兄) 皇后:正子内親王(せいしないしんのう) 子:恒貞(つねさだ) →良房の陰謀で廃太子・配流(承和の変) ※54仁明の項参照 妃:高志内親王(たかしないしんのう) 子:恒世(つねよ)(純潔の孫) →皇太子の位を固辞 皇太子:54仁明天皇 =正良内親王(まさらないしんのう) :甥、52嵯峨(兄)の息子、皇位迭立 ・50桓武の息子3代 :51平城-52嵯峨-53淳和 ・52嵯峨-53淳和-54仁明と迭立 ・没後、52嵯峨派と53淳和派の対立 →承和の変(842) →54仁明系列の継承 叔父 ↓ 甥 54仁明(にんみょう)天皇 833-850 父:52嵯峨天皇(第一皇子) 母:橘嘉智子(かちこ) 叔父:53淳和天皇 皇后:藤原順子(じゅんし) :良房の姉 子:55文徳天皇 =道康親王(★良房の甥) 妃:藤原沢子(たくし) 子:58光考天皇(時康親王) →55歳で即位 皇太子:恒貞(つねさだ) :先帝53淳和の皇子 →承和の変で廃太子(良房の陰謀か) 皇太子:55文徳天皇 =道康親王(★良房の甥) ◎承和の変(842) ※良房の陰謀か(自分の甥を皇太子にするため) 52嵯峨上皇崩御 →謀叛を企てた罪で、恒貞親王(先帝53淳和の皇子)は廃太子 →出家して東大寺へ →甥である道康(55文徳)が立太子 (姉・順子の子) →53淳和派の貴族が失脚 →52嵯峨系の父子直系王統(54仁明-55文徳) →良房(北家)が力を伸ばす ・神仙思想の影響(薬の調合) ・藤原良相(よしみ)に自分で精錬した仙薬を飲ませる 父 ↓ 子 55文徳(もんとく)天皇(=道康親王) 850-858 父:54仁明天皇(第一子) 母:藤原順子(じゅんし):冬嗣の娘 皇太子:56清和天皇 =惟仁親王(これひとしんのう) ★良房の甥 ★良房の躍進(太政大臣に就任) ・生後8ヶ月の惟仁親王を立太子(良房の外孫) ・32歳で崩御 父 ↓ 子 56清和(せいわ)天皇 858-876 父:55文徳天皇 母:明子(あきらけいこ/めいし) :★良房の娘 女御:高子(たかいこ):業平と噂 子:57陽成(ようぜい)天皇→生後3ヶ月で立太子 摂政:★良房(初の人臣摂政) 摂政:◎基経(良房の養子) ★良房の孫 ・良房の躍進(初の人臣摂政) ◎9歳で即位(最初の幼帝) →良房(外祖父の太政大臣)が実権を握る ※42文武は15歳で即位 ◎応天門炎上事件(放火事件)(866) →源信(みなもとのまこと)の冤罪 →伴善男(とものよしお)が真犯人か →流刑 →真相ははっきりせず(藤原氏の策略か) →藤原良相(よしみ)失脚 →◎良房は初の人臣摂政に →◎北家は「摂関家」の家格を確立 →北家による千年にわたる摂関独占のはじまり ・富士山噴火(864) ◎良房没(872) →後継者は養子の基経 ・27歳で9歳の皇太子陽成に譲位 →4年後に崩御(持病?) ◎大極殿炎上 父 ↓ 子 57陽成(ようぜい)天皇 876-884 父:56清和天皇 母:高子(たかいこ):業平と噂 妻:班子(なかこ)女王 摂政:藤原基経 ・生後3ヶ月で立太子 ・9歳で即位 ・宮中で馬を飼育するなど粗暴な行動 →基経が摂政を辞職 ・17歳のとき、宮中で乳兄弟(ちきょうだい)を打ち殺す →退位 →後継をめぐって朝議は紛糾 ・「筑波嶺(つくばねの)の峰より落つるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる」(百13) ----------------------------- 58光孝(こうこう)天皇 884-887 =時康 父:54仁明天皇(第三皇子) 母:沢子(たくし) 女御:班子女王(なかこじょおう) 子:59宇多天皇 =源定省(さだみ 子:為子(ためこ) →60醍醐の妻 皇太子:59宇多天皇 =源定省(さだみ) ・55歳で即位! ・皇太子を未経験 ・基経の従兄弟(母同士が姉妹) ・父子の直系血筋(54仁明-55文徳-56清和-57陽成)が切り変わる ・東海・東南海・南海の巨大地震(887) ・古今和歌集に2首 ・基経が「年中行事御障子文」(年中行事が記されたついたて)を献上する ・「君がため春の野にいでて若菜つむ わが衣手に雪はふりつつ」(百15,古今) ・即位から4年で崩御 父 ↓ 子 59宇多(うだ)天皇 887-897 父:58光孝天皇(第七皇子) 母:班子女王(なかこじょおう) 妹:為子(ためこ) →60醍醐の妻 妻?:義子(よしこ) 女御:胤子(たねこ) 子:60醍醐天皇 女御:衍子(えんし) :道真の長女 妻?:温子(あつこ):基経の娘 関白:◎藤原基経(関白の始まり) 皇太子:60醍醐天皇 ・臣下にくだっていた源定省(さだみ)が親王に戻り、同日立太子、践祚。 ※臣籍降下した皇子が帝位につく初例 ◎阿衡(あこう)の紛議(887): 基経を関白に任命する詔勅で「阿衡の任」という文言に、基経が難癖をつける →基経が政治の実権を握る →娘の温子(あつこ)を59宇多天皇の妻に(基経は外戚に) ◎基経没(891)→時平が後継者 ◎菅原道真を蔵人頭に抜擢(59宇多天皇の寵臣を受ける) 藤原氏(北家)の勢力を抑制し、親政を目指す →以降40年間、摂関が置かれず ・若くして皇位を譲位(31歳)し、院政をとる(35年間の上皇時代) →60醍醐は院政をしけず親政 ・寛平御遺誡(かんぴょうのごゆかい) :譲位の際に息子の60醍醐新帝に与えた訓戒の書 日常生活や政治の心得 藤原時平(基経の子)と菅原道真を並び用いるよう指示 ・仁和寺で出家 →初の法皇(出家した上皇) ・大井川へ紅葉狩りに出かける →お供の忠平が読んだ歌 「をぐら山峰のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ」百26 ※60醍醐天皇(宇多上皇の息子)にも見せたいともらした上皇の気持ちを読んだ→翌日実現 父 ↓ 子 60醍醐(だいご)天皇 897-930 父:59宇多天皇 母:胤子(たねこ) 妻?:為子(ためこ) →産褥死 :叔母、59宇多天皇の妹 女御:穏子(やすこ):時平の妹 子:保明(やすあきら):2歳で立太子 →夭折(道真の怨霊との噂) 子:61朱雀 子:62村上 更衣:源周子 子:源高明(みなもとのたかあきら) →安和の変(969)で左遷 皇太子:保明(やすあきら):2歳で立太子 →夭折 摂関:なし(延喜の治) 右大臣:菅原道真 左大臣:藤原時平 ・北家(時平)と協力することで、自分で政治を行う ◎菅原道真の太宰府への左遷(901): 「寒門より俄かに大臣に取り立てられたのに止足の分を知らず、専権の心あり」→大宰権帥(だざいのごんのそち)※名ばかりで職務にはつかず →903年、太宰府で没(59歳) →道真の怨霊、祟り →60醍醐天皇の皇太子が2人亡くなる →清涼殿に落雷(死傷者) →道真の鎮魂 →醍醐天皇は病没 ◎古今和歌集(905) :最初の勅撰和歌集(紀貫之、時平ら) ・延喜格(きゃく)・式を発布 :時平らの編纂 ・時平、道真の死の6年後に39歳で没(39歳) →時平没後は忠平が醍醐親政を補佐 ・親政(父の59宇多が長命であったため、院政をしけなかった) ◎延喜の治(摂関を置かず) ・34年間の在位(平安時代で最長) 父 ↓ 子 61朱雀(すざく)天皇 930-946 父:60醍醐天皇(第十一皇子) 母:穏子(やすこ):基経の娘、時平と忠平の妹 弟:62村上天皇(同母弟) 女御:煕子(ひろこ) :保明(やすあきら)の子 女御:慶子(よしこ) 摂政・関白:◎藤原忠平 :時平の弟 ・60醍醐天皇の崩御1週間前に8歳で即位 ・62朱雀天皇が元服し、忠平(天皇のおじ)が摂政→関白 以降これが慣習となる ・子供ができず15年間も皇太子が空位 →同母弟の成明親王(なりあきらしんのう)=62村上天皇が立太子 ◎将門の乱(939) :将門は桓武平氏の子孫 常陸・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)の国府を占領 →道真の霊から「新王」の位記を授かった ・藤原純友の乱 :藤原北家、長良の末裔 →合わせて ・道賢(どうけん)という山伏が 道真迫害の罪で地獄の業火にあぶられる60醍醐天皇を目撃(941) →弟の62村上が立太子 ・24歳で譲位 62村上天皇の即位を見たいとの穏子の希望から 兄 ↓ 弟 62村上天皇 946-967 父:60醍醐天皇(第十四皇子) 母:穏子(やすこ):基経の娘、時平と忠平の妹 女御→皇后:安子(やすこ) :師輔(もろすけ)の娘 子:63冷泉(れいぜい) 子:為平(ためひら) 子:64円融(えんゆう) 兄:61朱雀天皇(同母兄) 皇太子:63冷泉 摂関:忠平(949没)→949~967空位(天暦の治) ◎天暦の治 忠平の死を契機として摂関を置かず親政を敷く 摂関が置かれなかったが,北家の勢力は強かった 父 ↓ 子 63冷泉(れいぜい)天皇 967-969 父:62村上天皇 母:穏子(やすこ) 弟:64円融(えんゆう)天皇 女御:懐子(かねこ) 子:65花山(かざん)天皇 女御:超子(とうこ) :兼家の娘 子:67三条天皇 皇太子:64円融 摂関:実頼(さねより) 左大臣:◎源高明(みなもとのたかあきら):60醍醐天皇の子 →安和の変(969)で左遷 ・精神的な障害 ◎安和の変(969) 左大臣源高明(みなもとのたかあきら)が謀叛の罪で太宰府に左遷(藤原氏北家の陰謀か) →藤原氏による他氏排斥の最後の事件 →同族間での争いへ →以降摂政・関白が常置され、北家内でその地位が争われる →◎摂関政治(950-1050) 兄 ↓ 弟 64円融(えんゆう)天皇 969-984 父:62村上天皇 母:安子(やすこ) :師輔(もろすけ)の娘 兄:63冷泉(れいぜい)天皇 甥:65花山天皇 女御→皇后:媓子(てるこ) 女御:詮子(あきこ):兼家の娘 子:66一条天皇 皇太子:65花山天皇 摂政:実頼 →没(970) 摂政:藤原伊尹(これただ) →没(972) →兼通と兼家の兄弟間で摂政の地位をめぐる争い 関白:兼通→没(977) ・11歳で即位 ・藤原氏の内部抗争に翻弄される時代 叔父 ↓ 甥 65花山天皇 984-986 父:63冷泉天皇 母:懐子(かねこ) 妃:よしこ(小氏子※りっしんべんに氏) 皇太子:66一条天皇 関白:藤原頼忠 ・17歳で即位、19歳で退位 ・即位式の最中にそばにいた命婦(天皇に仕える女官)を高御座に引き入れて犯す ・道隆・道兼(次男)・道長の3兄弟に肝試しを命じる(大鏡) ・寵愛する(小氏子)が妊娠8ヶ月の身で他界 →65花山天皇の落胆 →兼家・道兼親子の策略で天皇を出家(花山寺)させる(天皇19歳) →兼家の孫である66一条天皇が即位 従兄弟 ↓ 従兄弟 66一条天皇 986-1011 父:64円融天皇 母:詮子(あきこ):兼家の娘 皇后:◎定子(ていし) :道隆の娘、◎清少納言の主人 子:敦康親王 →定子が亡くなり、彰子に預けられる 中宮:◎彰子(しょうし) : ◎紫式部の主人、道長の娘、2人の天皇を排出し、父道長の権力を確立 子:68後一条天皇 →出産の様子が式部日記に 子:69後朱雀天皇 摂政:兼家(祖父) →道隆(長男)に譲る(989) 摂政:道隆 →病没(酒の飲み過ぎ) 関白:◎道兼(七日関白) →病没 内覧:◎道長 皇太子:67三条天皇 :63冷泉と超子(とうこ)の子 ◎天皇よりも年長 ・兼家の孫 ・道兼没後、天皇の生母であり、道長の実姉である詮子(あきこ)の願いより、道長が内覧に ◎兼家は、天皇と皇太子に外孫をつけ権力の絶頂に →兼家一門(子:道隆,道兼,道長,超子,詮子)の躍進 ◎皇太子が天皇よりも年長 ・道隆没(995) →子の伊周(これちか)が道長との政権争いに敗れる →定子は出家 →一条天皇が呼び戻す →敦康親王を出産し、定子が産褥死 →敦康親王は彰子に預けられる ・彰子の子:68後一条天皇、69後朱雀天皇 ・彰子の孫:70後冷泉天皇、71後三条天皇 ・彰子の曾孫:72白河天皇 ・はしかの大流行 67三条天皇 1011-1016 父:63冷泉天皇 母:超子(とうこ) :兼家の娘 皇后:娍子(せいし) 中宮:妍子(けんし) ・66一条天皇よりも年長の歪んだ皇太子時代を送る ・即位式のさい、大極殿近くで見物人の手すりがこわれる ・眼病を患う ・道長が妍子を中宮におしこみ、一帝二后の状態 ・★道長との確執 娍子の立后を妨害、嫌がらせ ・道長が自分の孫(彰子の子)を皇位につけるために譲位を迫る →譲位を決意 →心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半(よは)の月かな(百68) 68後一条天皇 1016-1036 父:66一条天皇 母:◎彰子(あきこ) :紫式部の主人、道長の娘 中宮:威子(たけこ) :道長の三女,天皇11歳、威子20歳のときに入内 皇太子:敦明親王(あつあきらしんのう)→敦良親王(あつながしんのう=69後朱雀) 摂政:道長(1年で頼通に譲る) 摂政:頼通(道長の後継者) ★道長の孫 →道長は天皇・皇太子(ともに未成年)の外祖父となり権力の絶頂に ◎威子(たけこ)立后の夜の宴席で道長が詠んだ歌 →この世をば我が世とぞ思ふ望月(もちづき)の かけたることもなしとおもへば ・嗣子をもうけず死去 兄 ↓ 弟 69後朱雀天皇 1036-1045 父:66一条天皇 皇后:禎子(ていし)内親王 子:71後三条天皇 妻?:嬉子 :道長の娘 子:70後冷泉天皇 関白:頼通 ・伊勢外宮の倒壊(台風) ・内裏の火事、神鏡の溶解 ・疱瘡(ほうそう)の流行と罹患→病没 父 ↓ 子 70後冷泉天皇 1045-1068 父:69後朱雀天皇 母:嬉子 :道長の娘 関白:頼通 ・男色 71後三条天皇 父:69後朱雀天皇 母:禎子(ていし)内親王 妻?:基子(もとこ) 子:実仁(さねひと) ・親政を敷く ・「外戚関係のない摂関家など何とも思わぬ」(愚管抄) 摂関家を抑えて政治を押し進める →白河天皇に譲位し院政をしくことを目論む →譲位の翌年没(糖尿病) 父 ↓ 子 72白河天皇 1072-1086 父:71後三条天皇 母:茂子 皇后:賢子 :天皇の寵愛を受ける 子:73堀河天皇 =善仁(たるひと) 皇太子:実仁(さねひと) →薨去 皇太子:73堀河天皇 =善仁(たるひと) ◎院政の開始(73堀河天皇を8歳で即位させる) ・13歳の璋子(たまこ)と関係を持つ →75崇徳天皇は72白河の子か ・73堀河・74鳥羽・75崇徳と3代にわたり院政をしく ・74鳥羽の関白である忠実を罷免 ★摂関の任免権を上皇が掌握 ・天下の三不如意「加茂川の治水,双六の賽の目,比叡山の山法師」 ・祇園女御(ぎおんのにょうご)を中心とするハーレムをつくる ◎平正盛を抜擢 :清盛の祖父 ・仏教を篤く信仰(出家して法王となる) ・晩年は殺生を固く禁ずる 父 ↓ 子 73堀河天皇 1086-1107 父:72白河天皇 母:賢子 ・8歳で即位(立太子と同時に践祚)、29歳で崩御 74鳥羽天皇 1107-1123 父:73堀河天皇 皇后:璋子(たまこ) →72白河との関係は継続 子:75崇徳天皇 :72白河の子か ・73堀河天皇の崩御により5歳で即位 ・75崇徳のことを「叔父子(おじご)」と呼ぶ(叔父であり、子である) ・72白河上皇の意向により75崇徳に譲位(21歳で上皇に) →白河上皇:本院 鳥羽上皇:新院 父 ↓ 子 75崇徳天皇 1123-1141 父:74鳥羽天皇 (実は72白河上皇が父か) 母:璋子(たまこ) ・◎白河上皇と璋子の子か ・5歳で即位 ・72白河法皇が崩御(1129) ・74鳥羽法皇が崩御(1156) →◎保元の乱(1156) 頼長と提携し、77後白河天皇から皇位を奪うべく挙兵 →逆に後白河天皇方の夜襲を受ける →75崇徳上皇は讃岐に配流 →75崇徳上皇方の武士は死罪(薬子の変以来300年ぶり) →これ以降「武者(むさ)の世」に ◎保元の乱(1156) ※武士が中央政界に進出するきっかけとなる [75崇徳上皇・頼長・源為義・平忠正]vs[77後白河天皇・平清盛・源義朝] ・瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ(百77) 76近衛天皇 1141-1155 父:74鳥羽上皇 ・3歳で即位 ・眼病を患う 77後白河天皇 1155-1158 父:74鳥羽上皇 母:璋子(たまこ) ・清盛と提携 ・男色 78二条天皇 1158-1165 79六条天皇 1156-1168 80高倉天皇 1168-1180 81安徳天皇 1180-1185 82後鳥羽天皇 1183-1198 ・承久の乱 後鳥羽上皇 vs ②北条義時(執権) 96後醍醐天皇 1318-1339 ・朱子学を学ぶ ・政治に強い意欲 ・院政を排し、親政を開始 ・倒幕計画により隠岐島に島流し →脱出して伯耆(ほうき)の船上山にこもる 110後光明天皇 1643-1654 父:108後水尾天皇 弟:111後西天皇 将軍:③家光、④家綱 ・反幕(幕府に隠れて徳川御三家と秘密交渉) ・神仏分離 ・王政復古 ・仏教嫌い ・三種の神器の鏡の入った唐櫃を開け、中にあった仏舎利を捨てる ・疱瘡のため22歳で夭折 →★天皇の土葬慣例のはじまり(火葬は仏教式) ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 1神武天皇 (一)-p198 2~9:缺史八代(けっしはちだい):旧辞に欠き、実在性に疑問 2綏靖(すいぜい)天皇,3安寧(あんねい)天皇,4懿徳(いとく)天皇,5考昭(こうしょう)天皇,6考安(こうあん)天皇,7考霊(こうれい)天皇,8考元(こうげん)天皇,9開化(かいか)天皇 10崇神(すじん)天皇 (一)-p274 11垂仁(すいにん)天皇 (二)-p16 12景行(けいこう)天皇 (二)-p58 13成務(せいむ)天皇 (二)-p114 →甥 14仲哀(ちゅうあい)天皇 (二)-p120 15応神(おうじん)天皇 (二)-p190 16仁徳(にんとく)天皇 (二)-p222 17履中(りちゅう)天皇 (二)-p280 →弟 18反正(はんぜい)天皇 (二)-p300 →弟 19允恭(いんぎょう)天皇 (二)-p304 20安康(あんこう)天皇 (二)-p334 →弟 21雄略天皇 (三)-p16 22清寧(せいねい)天皇 (三)-p92 ----------------------------- 23顕宗(けんぞう)天皇 (三)-p102 →兄 24仁賢(にんけん)天皇 (三)-p132 25武烈天皇 (三)-p144 ----------------------------- 26継体天皇 (三)-p162 27安閑(あんかん)天皇 (三)-p212 →弟 28宣化(せんか)天皇 (三)-p226 →兄弟 29欽明(きんめい)天皇 (三)-p234 30敏達(びだつ)天皇 (四)-p16 →兄弟 31用明(ようめい)天皇 (四)-p52 →兄弟 32崇峻(すしゅん)天皇 (四)-p62 →異母姉妹 33推古天皇 (四)-p82 ------------- 34舒明(じょめい)天皇 629-41 (四)-p152 →皇后 35皇極(こうぎょく)天皇(女帝)=37斉明 642-645 (四)-p186 →弟 36孝徳天皇 (=軽皇子) 645-54 (四)-p236 →姉 37斉明(さいめい)天皇(女帝)=35皇極 655-661 (四)-p330 38天智(てんじ)天皇 称制661-668, 在位668-671 (五)-p16 39弘文天皇 671-672 ※日本書紀に記述なし →叔父 40天武(てんむ)天皇 673-686 (五)-p66 →皇后 41持統天皇 称制686-689, 在位690-697 (五)-p232 →孫 42文武(もんむ)天皇 697-707 →母 43元明(げんめい)天皇(女帝) 707-715 44元正(げんしょう)天皇(女帝) 715-724 →甥 45聖武天皇 724-749 46孝謙天皇(女帝)=48称徳 749-758 47淳仁(じゅんにん)天皇 758-764 48称徳(しょうとく)天皇(女帝)=46孝謙 764-770 ----------------------------- 40天武系→38天智系 ----------------------------- 49光仁(こうにん)天皇 770-781 50桓武天皇 781-806 51平城(へいぜい)天皇 806-809 →同母弟 52嵯峨天皇 809-823 →(異母)弟 53淳和(じゅんな)天皇 823-833 →甥 54仁明(にんみょう)天皇 833-850 (52嵯峨の子) 55文徳(もんとく)天皇 850-858 56清和(せいわ)天皇 858-876 57陽成(ようぜい)天皇 876-884 →乳兄弟殺し ----------------------------- 58光孝(こうこう)天皇 884-887 59宇多(うだ)天皇 887-897 60醍醐(だいご)天皇 897-930 61朱雀(すざく)天皇 930-946 →弟 62村上天皇 946-967 63冷泉(れいぜい)天皇 967-969 →弟 64円融(えんゆう)天皇 969-984 →甥 65花山天皇 984-986 →従兄弟 66一条天皇 986-1011 67三条天皇 1011-1016 68後一条天皇 1016-1036 69後朱雀天皇 1036-1045 70後冷泉天皇 1045-1068 71後三条天皇 72白河天皇 1072-1086 73堀河天皇 1086-1107 74鳥羽天皇 1107-1123 75崇徳天皇 1123-1141 76近衛天皇 1141-1155 77後白河天皇 1155-1158 78二条天皇 1158-1165 79六条天皇 1156-1168 80高倉天皇 1168-1180 81安徳天皇 1180-1185 82後鳥羽天皇 1183-1198 96後醍醐天皇 1318-1339 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 【兄弟間の譲位】 16仁徳(にんとく) 17履中,18反正(はんぜい),19允恭(いんぎょう) 19允恭 20安康,21雄略 押磐皇子(オシハノミコ) 23顕宗:ヲケノスメラミコト(弘計天皇), 24仁賢:オケノスメラミコト(億計天皇) 26継体 27安閑,28宣化,29欽明 29欽明 30敏達,31用明,32崇峻,33推古 (31~33は稲目の孫) 50桓武 51平城,52嵯峨,53淳和 【夫婦で天皇】 29欽明=33推古 34舒明=35皇極(37斉明) 40天武=41持統 【重祚した天皇】 35皇極=37斉明 46孝謙=48称徳 【その他】 43元明天皇(母:42文武の母、45聖武の祖母 44元正天皇(娘):43元明の娘、45聖武の伯母